「大学」再読 1
『大学・中庸』 金谷 治(訳注) 岩波文庫
「大学」だけですが、この記事を書くために読み直してみました。
いきなり中国の古典、まして儒学なんてと思われてしまうかもしれませんが、実際に読んでみると内容は分かりやすく、スタンダードな考え方に触れることができて、価値観の混沌とした日常を送っている身にはとても新鮮に感じられます。私としては「大学」はちょっとお薦めの本なので、このブログの最初に取り上げようと思ったわけです。
「大学」は儒学の重要経典「四書」の一つですが、「四書」の中で最も平明に儒学の概要を解き明かしているので、最初に読むべきものとされています。本文、書き下し文、語釈、訳文を合わせても文庫本で50頁ほどの分量です。私のような素人が平日に苦もなく読むことができます。
さて、儒学は一般に「修己治人(しゅうこちじん)」の学問だといわれます。「修己治人」とは、まず自分自身の徳を高め、その徳の力によって人々を和合させて国を治めていく、という考え方です。儒家というのは人としての姿勢がきれいだなと、何度読んでも思います。
また太平の世を築くという大きな目標を達成するために、自分自身を磨き高めることから始めるという儒家のアプローチは、迂遠なようでいて実は非常に合理的だと私には思えるのです。
国を治め太平の世を築くには、人を治める「力」が必要になります。言い方を代えれば「人を制御できるほど強い影響力を持つ」必要があるわけです。
今書店で、例えばビジネス書のコーナーを覗いてみると、人をコントロールするためのハウトゥーを教える本が数多あります。いい印象を与えたり、交渉で有利になったり、果てはノーと言わせない技術まで、メニューはいろいろです。そうした本をペラペラ捲ってみると、なるほどと思うようなノウハウが記されていますが、その多くは表面上のテクニックです。たまに接する相手には通用しても、長い付き合いで自分をよく知っている相手には通用しないでしょう。小手先の技は、限界が見えています。
人の発言の影響力について「何を言うかよりもどう言うか、どう言うかよりも誰が言うか」という格言があります。発言の内容よりも、どんな態度で発言されたかが大事で、どんな態度で発言されたかよりも、それを誰が言ったかということが重要だ、という意味です。
つまらない人間が立派なことを堂々と言ったとしても、衆人の尊崇を集める偉大な人物の穏やかな一言の方に、より重みがあるということです。
儒家は、まず自分を切磋琢磨して内面から充実させることに意を注ぎます。
そのテーマは、自分自身をより影響力のある人間に育てるというところにあります。「どう言うか」ではなく「誰が言うか」に力点を置いているのです。これは現代に氾濫している、どうやったら人をうまく操れるかというテクニック論とは対極に位置します。テクニックで人を操縦するのと比べて、徳の充実した人物の影響力は遙かに大きく持続的でしょう。自分を高めることで人への影響力を高め、目標を達成しようという儒家の発想には合理性と普遍性があるように思えます。
個性を尊重すると称して、あるがままの自分の欲求を制御することを学んでこなかった私は、結局中途半端で荒削りな大人になってしまいました。己を顧みると、自分の潜在力を引き出すには、文字通り刀匠が鎚で焼けた鉄を打つように、自分自身に対する鍛錬が必要だという当たり前の反省に行き着きます。約2000年も前に異国の地で書かれた「大学」は、今私に欠けているものを教えてくれるのです。
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コメント
せいさく0319と申します。
掲載されている日記を興味深く拝見させていただきました。事後の御連絡となりましたが、当方の記事にリンクをはらせていただき、日記を紹介させていただきました。
リンクをはらせていただいた件について、何か差しさわりがございましたら、その旨、御連絡ください。何分、ブログ初心者なもので、ご容赦ください。
また、よろしければ、今後とも、そちらのサイトを拝見させていただくつもりです。よろしくお願いいたします。
せいさく0319
サイト名 気になるブログ10件
mail:noguchi0319@mail.goo.ne.jp
http://plaza.rakuten.co.jp/kininaruburogu10/
投稿: せいさく0319 | 2005年9月 2日 (金) 15時14分
せいさく0319さん
コメントをありがとうございました。リンクを頂いて大変光栄です。
お時間がありましたら、またお寄りください。
今後ともよろしくお願いいたします。
投稿: BIFF | 2005年9月 2日 (金) 22時34分