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【逆転】「的を得る」:「誤用説は俗説」と事実上決着へ

昨年12月発売の『三省堂国語辞典』第7版に「的を得る」が採録されました。これで「的を得る」を誤用とする説が俗説であるとほぼ確定したといえる重要な事件ですので、遅ればせながら記事を上げます。

(といっても先日頂いたコメントに付けた返信の焼き直しですが)


当ブログには2012年2月に書いて、当時、私自身その内容に確信が持てなかったために公開していない記事があるのですが、それは「的を得る」を誤用とした「国語辞典」の調査をしたものでした。


調査でわかったのは、以下に示すとおり、1982年から1997年まで15年間「的を得る」を誤用とした「国語辞典」は『三省堂国語辞典』のみだったということです。(1982年以前に誤用説を載せている辞書はありませんし、現在でも「的を得る」を誤用と載せている「国語辞典」は実は少数派です)


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「的を得る」誤用説を載せている国語辞典と掲載時期(括弧内は、誤用説が載る前の版と、その出版時期)


1982年『三省堂国語辞典』   第3版(三省堂) (第2版1974年)


1997年『現代国語例解辞典』 第2版(小学館) (初版1985年)
2002年『新選国語辞典』   第8版(小学館) (第7版2000年)
2006年『大辞林』      第3版(三省堂) (第2版1995年)
2010年『明鏡国語辞典』   第2版(大修館) (初版2002年)


※(参考)最新版でも「的を得る」誤用説を載せていない「国語辞典」
・『広辞苑』(岩波書店)・『大辞泉』(小学館)・『新明解国語辞典』(三省堂)・『岩波国語辞典』(岩波書店)・『精選国語辞典』(明治書院)・『学研現代新国語辞典』(学研)・『旺文社国語辞典』(旺文社)・『福武国語辞典』(福武書房)・『集英社国語辞典』(集英社)・『角川必携国語辞典』(角川書店)・『講談社国語辞典』(講談社)・『ベネッセ表現読解国語辞典』(ベネッセ)・『三省堂現代新国語辞典』(三省堂)
※以上、2012年2月当時
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「国語辞典」の事情に少しでも詳しい方なら皆ご存じだと思いますが、辞書の神様ともいえる見坊豪紀さんが編集した『三省堂国語辞典』の権威は極めて高いもので、その『三省堂国語辞典』が「的を得る」を「誤用である」とした影響は非常に大きなものでした。

私が見つけた範囲では、2000年以前に「的を得る」誤用説を主張した書籍や記事が、その根拠としてあげていたのも、この『三省堂国語辞典』に誤用と記載されていることでした。こうした書籍や記事がやがてテレビ番組で取り上げられ、大きな反響を呼んで2000年頃を境に全国に「的を得るは誤用」という「常識」が広まり、平成15年の文化庁調査でも「誤用の多い例」として取り上げられるに至ったと思われます。


見方を変えれば『三省堂国語辞典』に誤用の記載がなければ、根拠の薄弱な「的を得る」誤用説がこのように世間に広まることはなかったはずです。


その『三省堂国語辞典』の第7版が去年2013年12月発売になり、この新版から「的を得る」が採録立項されたのです。


「的を得る」の掲載に関して、編集者の飯間浩明さんはtwitterに「『三省堂国語辞典』第7版では、従来「誤用」とされていることばを再検証した。「◆的を得る」は「的を射る」の誤り、と従来書いていたけれど、撤回し、おわび申し上げます。」とツイートされています。(https://twitter.com/IIMA_Hiroaki/status/412139873101807616)


「「的を得る」が普及してしまったので認めた」ではなく、「(誤用説を)撤回し、おわび申し上げます」ということです。(更に、飯間さんは著書『三省堂国語辞典のひみつ』(三省堂)の中でも誤用説は間違いであったから改めた、という趣旨の文章を書かれています)


もちろん私も、追随した4冊の「国語辞典」を含め、これだけ世間に広まってしまった「的を得る」誤用説が一夜にして消えるとは思いませんが、永らく誤用説の旗手であった『三省堂国語辞典』の「誤用説撤回」は今後の帰趨に決定的な影響を与えるだろうと思っています。

日本で最初に、そして永らく唯一、「的を得る」は誤用であるとしていた『三省堂国語辞典』が、その主張を撤回し、最新版にきちんと「的を得る」を立項したことで、「的を得る」が濡れ衣を免れて復権する日は近づきました。まぁ、もともと濡れ衣を着せた主犯も『三○○国語辞典』だったような気もしますが。

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日本語」カテゴリの記事

コメント

ああ、この件ようやく決着したんですね。
まぁ歴史を見渡せばどう考えても「得る」でしたが、(明治生まれのうちの祖父も「得る」を使っていましたし)
やはりきちんと決着すると気持ちが良いですね。

この件、やたらと頭の悪い人や攻撃的な人が絡んでくる話題でしたが、
それらを退けてのここまでの検証作業の継続、お疲れ様でした。
日本語を愛する一人の日本人として、感謝申し上げます。

投稿: L | 2014年10月26日 (日) 10時05分

L さん

コメントをありがとうございます。

多くの辞書や幾つかの文献を渉猟し、数々の証拠から「的を得るは的を射るの誤用だ」とするのは、明らかにおかしいと私自身は確信しましたが、正直なところ2012年の記事以降、限られた時間と私の力量では、どこまでいっても得られるのは状況証拠止まりで、「国語辞典の誤りだ」と証明するのはとても無理そうだと諦めていました。

そうした中、2013年12月に『三省堂国語辞典』が「自らの再検証によって誤用説を撤回した」ことを知り心底ホッとしました。

また、今回『三省堂国語辞典』が、自社のこれまでの説を含めた再検討をして巷間で「誤用」とされる言葉について改めて見解を発表した見識と勇気に強い感銘を受けました。見坊豪紀さんが「国語辞典」の任務の一つとして「規範を示す」を挙げた『三省堂国語辞典 第三版』の精神は、単に形式的なものではなく、より高い次元で現在の『三省堂国語辞典』の編集に受け継がれているのだと感じています。

投稿: BIFF | 2014年10月27日 (月) 12時55分

638 名前: 名無し象は鼻がウナギだ! [sage] 投稿日: 2014/10/28(火) 10:59:32.47 0
ttp://kumiyama-memo.hatenablog.com/entry/2014/02/15/223833
「的を得る」を「誤り」としたのは、『三省堂国語辞典』が最初ではありません (国語辞典としては初めてですが) 。
1970年代にはすでに、複数の書籍で「誤用説」が取り上げられていました。
ttp://kumiyama-memo.hatenablog.com/entry/2014/05/24/223830
1960年代にはすでに「的を得る」の言い方がある程度広まっていたことが、この記事から分かります。

最初に間違いだと決めつけた三省堂が撤回した。つまり的を得るは正しかった
と言ってた得る派はどうするの?

投稿: こいつを見てくれ。どう思う | 2014年11月 4日 (火) 11時10分

こいつを見てくれ。どう思う さん

コメントをありがとうございます。

『三省堂国語辞典』に採録される前に、「新聞のコラム」やいわゆる「正しい日本語本」で、「的を得る」誤用説が主張されていたことは存じています。しかし私は以下のように考えて、「的を得る」(または「的を得る」誤用説が定説のように扱われることの当否)を検討する当ブログではわざわざ取り上げる価値はないと判断しました。

ひと言でいって『三省堂国語辞典』採録以前の言説は、どれも全くといっていいほど「説としての信頼性」を備えていません。1969年の筆者不明の初出をみればわかるとおり、誤用説は「「的を得る」は、「的を射る」と「当を得る」の混用だ」と、はなから決めつけていますが、その根拠は示されず、用例の検討がされた痕跡すらないからです。(※用例の検証をすると、「的を得る」を誤用と断定するのには無理があることが誰にでもすぐにわかります。言い方を変えると、誤用説を断定的に主張する人は用例の検討をしていないのです。)

その後の1970年代の複数の出典も、誤用説を無批判に受け売りしているだけで、検証をした様子は全くありません。それらの編著者群の中には当時一流の国語学者も含まれていますが、むしろ論文ではないとはいえ、検証もせずに受け売りする姿勢は専門家としてどうなのかと思います。

確かに世間では、こうした「一見もっともらしい話」が、時に「専門家」すら巻き込んで流行することは珍しくはありません。世に言う「ニセ医学」もそうですし、少し前の「水からの伝言」や、最近の「江戸しぐさ」のように、流行しただけでなく学校教育に取り入れられた例もあります。しかしこうした流行は、その説が「正しい」とか「定説」である証拠にはなりません。

また1970年代に誤用説への反論がないのは、それだけ誤用説が広まってもいなければ、まともに相手にもされていなかったあかしでもあります。「怪しい言説」は最初は放置されますが、世間である程度以上流行すると、やがて周囲も放置できなくなって検証や批判がはじまるものです。「受け売りする人が現れ、一定期間反論がないからその考えが主流」というのは、現実と引き比べると、かなりおかしな話です。

しかし1982年の『三省堂国語辞典』への採録は、それ以前の言説とは全く次元と意味が異なります。「新聞のコラム」や「正しい日本語本」でしかみかけない「俗説」に過ぎなかった「的を得る」誤用説は、国語辞典の認証を得たことで一気に信頼性と権威を得たのです。(私自身も2000年代に流行するまで誤用説を知りませんでしたし、初めて聞いた時はまさか『三省堂国語辞典』に載っているとは思わず「「正鵠を得る」を知らない無知な者の妄言」と一笑に付し、こんなモノはすぐに消えるだろうと相手にしませんでした。今にして思えば、もしあの時に『三省堂国語辞典』を引いていれば、私はあっさり誤用説を受け入れていたに違いありません。)

実際に『三省堂国語辞典』に誤用説が掲載されたあとになって、ようやく「的を得る」と「正鵠を得る」との関連を指摘する説がみられるようになりましたが、その後の経緯と結果からみれば、そうした声は『三省堂国語辞典』の権威に全く歯が立たなかったわけです。

以下、わかり易い一例を示します。

NHK放送文化研究所の『放送研究と調査』1997年5月に掲載された「「的を得た」は的を射ているか」という記事の一節です。用例なども視野に入れつつ、「的を得る」が正用であるかどうか検討する良い記事でしたが、結びの部分はこうなっています。

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「的を得た」が,「当を得た」と「正鵠を得た」のいずれと混同したのかは,さだかではない。
しかし,今のところは,辞書には「(あやまって)的を得る」(『三省堂国語辞典』〈3版・1982〉)
と記載されており,「的を得た」は「的を射ている」と言うことはできない。
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この記事は「いずれと混同したのかは,さだかではない」(つまり検討の結果、誤用と断定もできない)としつつ、『三省堂国語辞典』に誤用と記載されている以上「的を得る」を正用とはいえない、と結論づけているのです。

しかし、もし今この記事が書かれれば「『三省堂国語辞典』が正用と認めている以上、誤用とはいえない」と結論が変わります。私が「「誤用説は俗説」と事実上決着へ」とした所以です。

つまり「的を得る」誤用説にとって『三省堂国語辞典』への掲載が「根」であるとすれば、それ以前の言説は「枝葉」に過ぎないということです。(もちろん誤用という根拠を示した説があれば別ですが、なべて誤用説には「的は射るもの、得てどうする」以上の根拠はないのです)

たかが「的を得る」に少々大袈裟な比較ですが、今年大きな問題になった「STAP細胞」も、論文が『Nature』に掲載されたからこそ世界の注目を集めました。今でも「STAP細胞」が存在しないことが証明されたわけではありませんが、『Nature』が論文を取り下げた段階で、事実上「STAP細胞」は終わりました。『Nature』が論文を取り下げたあとに、「実は『Nature』掲載前に「STAP細胞」に関するこんな記事があった、こんな本があった」と発掘して並べてみたところで、それが「STAP細胞」の再評価につながる可能性はありません。私は『三省堂国語辞典』の誤用説撤回は、「的を得る」誤用説にとって、『Nature』の「STAP細胞」論文取り下げに匹敵する事件だと考えます。

はっきりしているのは『三省堂国語辞典』の誤用説撤回で、もともと根拠が薄弱な誤用説を「定説」のように主張できる時代は終わったということです。すでに2年前大阪の教員採用試験で『日本国語大辞典』への採録を理由に「的を得るを誤用」とした設問が撤回されました。今後は、入試や学校の定期考査でも出題できなくなるでしょう。俗説による「的を得る」狩りが終了しさえすれば、私にとってのこの問題は完全に解決です。

まだ国語辞典の中に誤用説を掲載したものもありますが、私は、それらも今後、誤用説を撤回していくのではないかという予断を持っています。『三省堂国語辞典』が、これだけ誤用説が世間に定着した今になって、30年以上主張してきた自らの説を撤回するからには、相応の検討がされたはずだと考えているためです。

投稿: BIFF | 2014年11月 4日 (火) 19時20分

>こいつを見てくれ。どう思う さん
BIFFちゃん、君ってば、自分の味方には「様」で、そうじゃないなら「さん」なんだね。どうでもいいけどさ

>「的を得る」誤用説
誤用の意味は「言葉の意味や用法を間違える。使い方を間違える」

>誤用説は「「的を得る」は、「的を射る」と「当を得る」の混用だ」と、はなから決めつけていますが、その根拠は示されず、用例の検討がされた痕跡すらないからです。
未知論証。論拠が説明されなくとも、それは割愛しただけかもしれない
確実に言えることは「混同だという証拠は無い。ゆえに、混同であるかもしれないし、混同ではないかもしれない」ということだけです

>用例の検証をすると、「的を得る」を誤用と断定するのには無理があることが誰にでもすぐにわかります。
的を得るのもととなった正鵠を得るのもととなった「(不)失正鵠」の対義語は「得正鵠」ではなく「中正鵠」
失はそれる・すべる・はずれる意。対義語はあたるの中
漢籍に得正鵠の用例はなく、中正鵠の用例がある。正鵠は漢語であり、漢籍の用例は中正鵠
中正鵠を日本で言えば「的を射る」となる

>また1970年代に誤用説への反論がないのは、それだけ誤用説が広まってもいなければ、まともに相手にもされていなかったあかしでもあります。
前件否定の虚偽。「反論がない=広まっていない。相手にされていない」ではない

>「怪しい言説」は最初は放置されますが、世間である程度以上流行すると、やがて周囲も放置できなくなって検証や批判がはじまるものです。
誤った二分法。「間違いだが、定着したから正しくなった言葉」は沢山ありますよ

>「正鵠を得る」を知らない無知な者の妄言」と一笑に付し、こんなモノはすぐに消えるだろうと相手にしませんでした。
対人論証

>しかし、もし今この記事が書かれれば「『三省堂国語辞典』が正用と認めている以上、誤用とはいえない」と結論が変わります。
権威論証。「三省堂国語辞典が誤りというから誤り」も「三省堂国語辞典が正しいというから正しい」も詭弁・誤謬です

>なべて誤用説には「的は射るもの、得てどうする」以上の根拠はないのです
正鵠を得るは不失正鵠の「不失」を「うしなわず」と誤訳したからできただけ。本来は「しっせず(それず)」と読む

>私は『三省堂国語辞典』の誤用説撤回は、「的を得る」誤用説にとって、『Nature』の「STAP細胞」論文取り下げに匹敵する事件だと考えます。
誤った類推

>俗説による「的を得る」狩りが終了しさえすれば、私にとってのこの問題は完全に解決です。
「2ちゃんねる」や「ニコニコ大百科」では得る派が絶体絶命の大ピンチだから助けてあげてください!

>『三省堂国語辞典』が、これだけ誤用説が世間に定着した今になって、30年以上主張してきた自らの説を撤回するからには、相応の検討がされたはずだと考えているためです。
三省堂は「的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ」の論にはどうやって反論するのでしょう?

投稿: 阿部高和 | 2014年11月 7日 (金) 23時20分

阿部高和 さま

>BIFFちゃん、君ってば、自分の味方には「様」で、そうじゃないなら「さん」なんだね。どうでもいいけどさ

これは失礼しました。別の記事ではコメントへの返信に「様」を使っていたかも知れません。

>誤用の意味は「言葉の意味や用法を間違える。使い方を間違える」

そのとおりです。が、使うべき言葉を取り違えることも「使い方を間違える」という意味で「誤用」でしょう。

>>誤用説は「「的を得る」は、「的を射る」と「当を得る」の混用だ」と、はなから決めつけていますが、その根拠は示されず、用例の検討がされた痕跡すらないからです。
>未知論証。論拠が説明されなくとも、それは割愛しただけかもしれない
>確実に言えることは「混同だという証拠は無い。ゆえに、混同であるかもしれないし、混同ではないかもしれない」ということだけです

これもそのとおりです。が、結果的に証拠を示さずに断定していることも事実です。その後、何十年も根拠や論証の補足もありません。論拠が割愛されたと推測するべき判断材料はありません。

>>用例の検証をすると、「的を得る」を誤用と断定するのには無理があることが誰にでもすぐにわかります。
>的を得るのもととなった正鵠を得るのもととなった「(不)失正鵠」の対義語は「得正鵠」ではなく「中正鵠」失はそれる・すべる・はずれる意。対義語はあたるの中
>漢籍に得正鵠の用例はなく、中正鵠の用例がある。正鵠は漢語であり、漢籍の用例は中正鵠中正鵠を日本で言えば「的を射る」となる

全く的はずれな指摘です。私は「正鵠を得る」が正用であるという常識を前提に検証をしています。貴方が、すでに一般に正用と認められた「正鵠を得る」に対する異論を唱える分には何の支障もありませんが、世間で支持もされていない珍しい異論を前提にして議論を仕掛けられても、私にはどうしようもありません。

>>また1970年代に誤用説への反論がないのは、それだけ誤用説が広まってもいなければ、まともに相手にもされていなかったあかしでもあります。
>前件否定の虚偽。「反論がない=広まっていない。相手にされていない」ではない

「的を得る」誤用説が、いかに「まともに相手にされていなかったか」という例を補足しておきます。
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「的を得る」は「当を得る」との混交によるものだ、とする説に対して、『言泉』編者の林大さんは、
「そう言われていますね。それでもいいんだろうけれど、ぼくは、どちらかと言えば、『正鵠を得る』
の方が影響が大きいと思うな」と言う。
( 『今様こくご辞書』 石山茂利夫 1998年 読売新聞社)
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この話が載っているのは1998年の書籍なので、既に『三省堂国語辞典』の誤用説掲載も前提になっていますが、「誤用説は知ってますよ。まぁ、そう信じるのは勝手だけれど、「的を得る」の元は「正鵠を得る」でしょう」とあっさり切り捨てています。

この発言をした林大(はやし おおき)博士は、元国立国語研究所所長で、引用にもあるとおり『言泉』の監修者です。東大で橋本進吉博士に師事し、金田一京助門下の見坊豪紀さんより2学年先輩にあたり、国立国語研究所で第三研究部長を務めた見坊さんの上司でもありました。この記事の時点では『三省堂国語辞典』の権威に圧されない数少ない存在だったと思います。

林大博士にすれば、尋ねられたから答えたけれど自分からわざわざ誤用説に反論するまでもないとお考えだったでしょう。しかし皮肉なことですが、この数年後に「的を得る」誤用説が大流行することになるのです。

>>「怪しい言説」は最初は放置されますが、世間である程度以上流行すると、やがて周囲も放置できなくなって検証や批判がはじまるものです。
>誤った二分法。「間違いだが、定着したから正しくなった言葉」は沢山ありますよ

当然そうですが、「的を得る」にはあてはまりません。誤っていないモノが誤りと誤認されて俗説が世間に広がるという例も沢山あります。私はそちらの話をしているのです。

>>「正鵠を得る」を知らない無知な者の妄言」と一笑に付し、こんなモノはすぐに消えるだろうと相手にしませんでした。
>対人論証

これはそのままお返しするしかないでしょうか。林大博士の見解は上記ご紹介したとおりです。すでに「正鵠を得る」という慣用表現に馴染みがある人が誤用説を聞けば、たいてい同じように感じるでしょう。要は「正鵠を得る」という言葉を知らない(または忘れている、即座に思いつかないくらい馴染みがない)人が、「的は射るもの、得てどうする」などと聞いて納得してしまうのです。そうした人の一部が「正鵠を得る」が間違いだという説を唱え始めるわけです。

>>しかし、もし今この記事が書かれれば「『三省堂国語辞典』が正用と認めている以上、誤用とはいえない」と結論が変わります。
>権威論証。「三省堂国語辞典が誤りというから誤り」も「三省堂国語辞典が正しいというから正しい」も詭弁・誤謬です

これも意味が違います。貴方は、当時の『三省堂国語辞典』、特に、脂の乗り切った斯界の巨人が全身全霊をあげて世に問うた第三版の位置づけをご存じないだけです。書店で『三省堂国語辞典』を手に取ってみてください。現在の第七版にも「第三版の序文」が載っています。

『三国』三版に載るということは、単に権威というだけでなく、その説には200万枚を超える見坊カードの裏付けがある、つまり現在のようにデータがデジタル化していなかった時代としては、最も厳しい用例による検証を経た判定だということを意味していたのです。私が「もしあの時に『三省堂国語辞典』を引いていれば、私はあっさり誤用説を受け入れていたに違いありません。」と書いたのは、『三国』は、普通に考えれば個人が異を唱えるために用例の検証などしても徒労確定な相手だからです。

>>なべて誤用説には「的は射るもの、得てどうする」以上の根拠はないのです
>正鵠を得るは不失正鵠の「不失」を「うしなわず」と誤訳したからできただけ。本来は「しっせず(それず)」と読む

「失せず」と読んでも構いませんが、「正鵠を失わず」は、漢文では通常の訓読です。誤訳でも何でもありません。

>>私は『三省堂国語辞典』の誤用説撤回は、「的を得る」誤用説にとって、『Nature』の「STAP細胞」論文取り下げに匹敵する事件だと考えます。
>誤った類推

『三省堂国語辞典』が30年来の自説を撤回したことは、誤用説の信憑性にとって致命的です。これを単に一辞書の見解に過ぎないと「過小評価」する方が誤っていると思います。もちろん論文取り下げで「STAP細胞」が存在しないことが証明されたわけではないのと同様、『三国』の撤回で誤用説が完全に誤りと証明されたわけではありませんが、定説のように主張できなくなったのは事実です。

>>俗説による「的を得る」狩りが終了しさえすれば、私にとってのこの問題は完全に解決です。
>「2ちゃんねる」や「ニコニコ大百科」では得る派が絶体絶命の大ピンチだから助けてあげてください!

せっかくのお誘い申し訳ありませんが、私は遠慮しておきます。皆さんで議論を楽しんでください。

>>『三省堂国語辞典』が、これだけ誤用説が世間に定着した今になって、30年以上主張してきた自らの説を撤回するからには、相応の検討がされたはずだと考えているためです。
>三省堂は「的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ」の論にはどうやって反論するのでしょう?

よもや三省堂からの反論はないでしょうが、「的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ」に対する私の見解は、以下のとおりです。

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まずこのテンプレートの最大の問題は「的を得る正当論を滅ぼす」と題していながら、ほとんどが既に世に認められた慣用表現である「正鵠を得る」への言いがかりのような批判に終始していることにあります。

このテンプレートの理路は「中国語では本来「得正鵠」とは言わないから「正鵠を得る」は間違いである」「が、日本では「正鵠を得る」は認めざるを得ない。」「しかし元来間違いである「正鵠を得る」から派生した「的を得る」は許容できない間違いである」ということのようですが、「中国語にない表現だから日本語として間違い」という主張が根本的に成り立たないことは議論の余地がありません。

例えば「「花が咲く」は本来中国にはない表現だから間違いだ」と主張したとして、日本語話者の何人がそれに納得するでしょうか?

確かに中国語では「花は開く」ものです。そして「咲」という漢字は元来「笑」と同義の文字で、中国語では「さく」という意味を持っていません。「さく」は「咲」という漢字が渡来してから、日本で独自に付加された意味です。

そのため中国語には当然「花が咲く」という表現はありませんが、それが日本語で「咲」を「さく」と読むのは間違いであり、「花が咲く」という表現も間違いである、という根拠になるでしょうか?

繰り返しますが、中国語の表現に「ある」「ない」は、日本語の表現の正否の判断基準にはなり得ません。

この問題の前提には、異なる言語の間では、全く同じ意味の「語」や「言い回し」が存在する方が珍しいという現実があります。そのため中国語の「語」や「言い回し」を正確に日本語に写すことはもともと不可能なのです。

「不失」を「中る」ではなく「得る」に訳すことが間違いだという以前に、中国語の「正鵠」と日本語の「正鵠」は、形が同じであっても、すでにその意味する内容は異なるのです。このように国境を越えた時に「語」の意味(や指し示す事物・内容)が変化する現象は、日本語と中国語の間だけでなく、世界中あらゆる傍層関係にある言語で起きています。これは言語に普遍的な現象であって、決して「間違い」などではありません。

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更に、このテンプレートは「正鵠=的」という事実を認めているので、「正鵠を得る」を許容してしまうと直に「的を得る」を否定する根拠を失います。言い換えると、一般には誰もが認めている「正鵠を得る」という慣用表現を「本来は誤りだけれど、認めざるを得ない」と、アクロバティックに批判しなければ「的を得る」を否定することが出来ないほどこの「的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ」の理路は弱いのです。

結果として、この「的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ」はこれだけの文字数を費やしても「的を得る」が誤用である直接の根拠をただの一つも提示できておらず、当然「的を得る」が誤用であることなど全く証明していません。これが、当ブログのコメント欄に大量のコピペがあった時に一つを残してその他を削除し、その後の的はずれな議論も非表示として取り上げなかった理由です。

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また、「的を得る」の正誤とは本来何の関係もない「的を射る」不適切論への反論が混在している点もこの「的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ」の大きな瑕疵になっています。

ネット上では「的を得るは間違いではない」という主張が行き過ぎて、「的を射るの方が間違い(あるいは不適切な表現)だ」という言説をみかけますが、このような説を専門家や国語学者が唱えているのをみたことがありません。もちろん私自身も(素人ですが)そんな主張をしたことはありません。

「正鵠を射る」「的を射る」が「不適切」(射るでは矢が当たったかわからないなど)あるいは「間違った」表現である可能性などないでしょう。

「正鵠を得る」「正鵠を射る」「的を得る」「的を射る」が慣用的に指し示している「物事の核心をとらえる」という内容はほぼ完全に等価で、これらの表現の間にある違いは、音の違いから生じる語感の差だけです。(私はこの語感の差にこそ「的を得る」の存在価値がある、と思っていますが)

「的を得る」を批判するためには、元々間違いである「的を射る」不適切論と束にして批判するのではなく、きちんと「的を得る」が間違いである証拠を揃えなければなりませんが、この「的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ」は、そうした基本が全く押さえられていません。

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論としての大筋が整っていない他にも、この「的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ」には細かい誤りが多いので、以下、私の分かる範囲で逐次コメントを付けておきす。

正鵠を得るが礼記にある→ない。礼記の不失正鵠(正鵠を失せず)を失わずと間違え、そこからの推測で正鵠を得るができただけ。漢語に得正鵠は存在しない。失は失うではなくそれる意。対義語はあたるの中。失正鵠(正鵠をそれる)の対義語は中正鵠(正鵠にあたる)。用例もある

・中国語ではその通りですが、日本語では失と当は対義語で相互に呼応します。例えば「当を得る」の対義表現は「当を失す」で、「失」の対義には「得」がごく自然に当てられます。これは日本語では特別なことではありません。
・また「正鵠を失わず」は「不失正鵠」のごく普通の訓読です。間違いなどではありません。

正鵠は的の中心の黒星のこと→それは西周、大槻文彦、服部宇之吉たちが勝手に作った意味が日本と中国に広まっただけ。正鵠の本来の意味は的の中心の黒星ではなく単純に的のこと。正も鵠も的の大きさで言い分けるだけ。「皆侯之中、射之的也」と反論したら笑うよ?

・本来「正鵠」が「的」と基本的に同義だというのは、私の主張と同じです。そしてこれは「正鵠を得る」から「的を得る」が派生した重要な根拠になります。
・しかし「正鵠」は1717年の『合類大節用集』(「節用集」は中世から明治・大正期にかけて数多く出版された国語辞典の祖)にすでに「マトノメアテ」として採られており、「的の中心」の語釈が西、大槻、服部らの創作などということはあり得ません。

得には当たる意味がある→ない。中国でも日本でも得に当たる意味などない。得より取のほうがよっぽどマシかもね

・これはその通りです。従って「矢が的に当たる」意味で「的を得る」といえば(弓道では、その意味で使うとことがあると聞いたことはありますが)一般的には誤用です。
・しかし「物事の核心をとらえる」という意味の慣用表現「的を得る」とは無関係の話です。例えば、今回「的を得る」を採録した『三省堂国語辞典 第7版』では「得る」を「うまく捉える」の意と解釈しています。「的を得る」が「物事の核心をとらえる」意味として使われるとき、「的」は「弓の的」ではなく「物事の核心」という意味ですし、これに呼応する「得る」が「当たる」という意味である必要はありません。

昔は漢籍に精通した人が多く、年長者ほど正鵠を得ると的を得るを使用する→正確に伝来できずに意味を間違えた漢語は沢山ある。それらは誤りだが正しいとせざるを得なくなった。正鵠を得るは日本初の要点を上手く捉える意味の語句だから誤りだが正しいと認めざるを得ないだけ

・用例を調べれば、明治から大正にかけて漢籍の素養がある知識人によって「的」と「正鵠」(または「鵠」「侯」)など、中には「鵠的」という造語までが同義の言葉として自由に使用されていたことが分かります。
・また先に書いたとおり、中国語の「語」の意味を正確に日本語に写すことは元々不可能です。異なる文化圏に移動した時に「語」の意味が変化するのは、世界中あらゆる傍層関係にある言語で起きる現象です。これは言語の本来の性質なので「間違いだ」といっても意味がありません。
・事実は、日本語に中国の古典を起源とする「物事の核心をとらえる」意味の「正鵠を得る」という慣用表現があるということです。「中国語と違う表現だから誤りだ」という主張は、事実に反する詭弁に過ぎません。

中国語で得正鵠がある→それは日本から中国に伝わったもの。正鵠を得るは諸悪の根源である

・日本語ほど強固ではないのかも知れませんが、中国語でもやはり「得失」は対義関係にあります。「得正鵠」が日本から伝わった表現だとすれば、中国でもその表現が容認された証拠でしょう。
・「正鵠を得る」を「諸悪の根源」と主張するのは自由ですが、賛同する人は少ないでしょう。

正鵠を得る、正鵠を射る、的を射る、的を得るの順に作られた(どれも戦前から使用)。正鵠を射ると的を射るこそが誤用→正鵠を射る(正鵠=的。射る=中)は正鵠を得るの訂正。的を射る=正鵠を射る=中正鵠≠正鵠を得る=得正鵠=的を得る

・繰り返しになりますが「正鵠を射る」「的を射る」が誤用などということはあり得ません。
・「射る」に「当たる」の意味があるのはその通りで、大正時代には少数ですが「正鵠に中る」という用例もあります。しかし、それが「正鵠を得る」を否定する証拠にはなりません。

的を得るは誤用じゃない→誤用は言葉の意味を誤って使うことで、言葉そのものを誤ったときには使用できない。的を得るは誤用ですらない

・「誤用」は「意味を誤って使う」ことだけではありません。「薬品の誤用」のように「誤って使うこと」を日本語では一般に「誤用」といいます。

的を得るは正しいんだ→的を射るは慣用句で、的を得るは慣用句ではない。慣用句は特定の単語の組み合わせでなければならず、同じ意味の単語ではダメ。100階から目薬、写輪眼が無い、馬の耳に聖歌、ハローキティに小判が正しいとでも言うのか

・コロケーションの問題として、日本語では本来「的は射るもの」というのはその通りですが、用例の多い「正鵠を得る」が慣用表現であるのと同様「的を得る」は慣用表現でしょう。逆に「正鵠に中る」は意味合いから用法が妥当でも、用例が少なすぎて慣用表現とはいえません。

射るだと当たったかは不明。射抜くにしなければならない→違う。射るには当たる意味がある。これは日本古来の意味。用例もある

・これはその通りで、普及版の国語辞典でも確認できる常識の範囲の話です。
・「的を射る」だと「的に当たったかどうか分からない」という主張は間違いです。

根拠を出せ→民明書房にも劣る駿河台予備校世界史講師中谷臣のトンデモソースを信じる君が大好きなネット検索で調べてみよう。それでも納得できなければ、辞書や古典とかいろいろ読んでみよう。もちろん角川や三省堂以外もね

・各種データベースなどでの用例検索以外、今のところネット検索はあまりあてになりません。
・その予備校講師の方の記事は私も読みましたが、特に後半は「得る」と「射る」の比較など誤りが多かったと思います。
・しかし「的を得るは誤用ではない」と主張した人が、それとは別の間違った主張をしたとしても「的を得る」が誤用である証拠にはなりません。
・私は、中世から近現代のものまで、かなりの数の「国語辞典」を渉猟しました。「正鵠」を「的の中心」と解したのが明治期だと主張する人は、明らかに私より調査不足です。

無根拠で得るを否定する無責任なヤツは得る正当論に反論できなかった。論破したから正論だ→なにが正論かは時と場合によって変わるし、論破によって正論か決まるわけでもない。文化庁などの総意を無視して詭弁をふりかざす無責任なことは止めてください

・言葉の意味は基本的に「用例」(実際の使われ方)で決まります。そのため確かに日本語の「語」の意味は、日本語話者の総意に基づいて決まると言うことは可能です。
・しかし2000年頃を境に誤用説の流行によって「的を射る」が急速に普及したことは、文化庁の調査結果でもあきらかです。私は、これを根拠の曖昧な「的を得るは誤用」という俗説の流行によって、日本語の語彙が不当かつ不自然にねじ曲げられた結果だと考えています。現実に私がブログで「的を得る」取り上げた当時、誤用説の流行で「的を得る」が徐々に使われなくなり、将来的には本当に誤用となる恐れは高かったのですが、昨年末の『三省堂国語辞典』の誤用説撤回で今後は状況が変わると予測しています。

投稿: BIFF | 2014年11月 8日 (土) 08時47分

>これは失礼しました。別の記事ではコメントへの返信に「様」を使っていたかも知れません。
今度は「様」と漢字にせずにひらがなで「さま」って。なにもそこまで嫌わなくたっていいじゃないの…

>そのとおりです。が、使うべき言葉を取り違えることも「使い方を間違える」という意味で「誤用」でしょう。
「的を得るは(本来の意味と違っているから)誤用」じゃなくて「的を得るは(日本語の)誤用」ということ?

>全く的はずれな指摘です。
知性への脅し。充填された語。多数論証

>林大博士にすれば
権威論証。「失うだから得る」という…

>当然そうですが、「的を得る」にはあてはまりません。
媒概念不周延の虚偽

>そうした人の一部が「正鵠を得る」が間違いだという説を唱え始めるわけです。
前後即因果の誤謬

>ご存じないだけです。
対人論証。そんなすごい本に的を得るは間違いだと書かれていたのですね。

>「失せず」と読んでも構いませんが、「正鵠を失わず」は、漢文では通常の訓読です。誤訳でも何でもありません。
失わずだと意味が通らない

>定説のように主張できなくなったのは事実です。
射る派も今更「当を得るとの混同だ」なんて言っている人はあまり見かけないです

>せっかくのお誘い申し訳ありませんが、私は遠慮しておきます。皆さんで議論を楽しんでください。
得る派の人の多くは、予備校講師の人じゃなくて、君を信じているんだよ
「このブログの人は頑張っている。だから自分もこのブログのことを宣伝したい。みんなに事実を知ってほしい」と思っているから戦っているんだよ
ブロガーにとって読者は大切な存在。その人たちが攻撃されてもなんとも思わないの?
助け合うのが仲間じゃん

>「中国語にない表現だから日本語として間違い」という主張が根本的に成り立たないことは議論の余地がありません。
洒落が成立しないから。語源と今の使われ方は違うから。最初から正しい言葉と間違いだが正しくなった言葉は違うから

>これは言語に普遍的な現象であって、決して「間違い」などではありません。
日本人が意味を理解せずに推測で勝手に意味を決めただけの漢語たちって一体…。ワイシャツにされちゃったホワイトシャツとかなんなの
漢語で構成された漢文を、日本人が日本語でもないのに漢語に勝手に決めた間違った意味で読むのが「間違いではない」って、それ文化じゃなくてただの勘違いだから

>このテンプレートは、そうした基本が全く押さえられていません。
だってこれ「的を射るは間違いだ」と言っている普通の人対策でもあって、BIFFちゃん専用のためじゃないし…

>日本語では失と当は対義語で相互に呼応します。
「失と当」じゃなくて「失と得」の間違いでは?
「面目を失う」の対義語は「面目を施す」とかじゃなくて「面目を得る」、「礼を失う」の対義語は「礼を尽くす」とかじゃなくて「礼を得る」?

>「正鵠」は1717年の『合類大節用集』にすでに「マトノメアテ」として採られており
あら、そうなの?

>「物事の核心をとらえる」という意味の慣用表現「的を得る」とは無関係の話です。
慣用句の基になるのは通常の表現のはず

>「得正鵠」が日本から伝わった表現だとすれば、中国でもその表現が容認された証拠でしょう。
誤った二分法

>「正鵠を得る」を「諸悪の根源」と主張するのは自由ですが、賛同する人は少ないでしょう。
印象論

>しかし、それが「正鵠を得る」を否定する証拠にはなりません。
未知論証

>「誤用」は「意味を誤って使う」ことだけではありません。
そこまで説明しなくてもいいのではないかと

>用例の多い「正鵠を得る」が慣用表現であるのと同様「的を得る」は慣用表現でしょう。
的を得るはいつから慣用句になったの?

>逆に「正鵠に中る」は意味合いから用法が妥当でも、用例が少なすぎて慣用表現とはいえません。
うん、そうだね。代わりに正鵠を射るが登場

>「的を得るは誤用ではない」と主張した人が、それとは別の間違った主張をしたとしても「的を得る」が誤用である証拠にはなりません。
それもとうぜん未知論証。間違いである証拠にも間違いではない証拠にもならない

>「正鵠」を「的の中心」と解したのが明治期だと主張する人は、明らかに私より調査不足です。
この場合は 'blanc de cible'を正鵠と訳したわけで

>昨年末の『三省堂国語辞典』の誤用説撤回で今後は状況が変わると予測しています。
楽しみですね

投稿: 阿部高和 | 2014年11月 8日 (土) 14時12分

阿部高和 様

貴方には、私が「得る派」にみえるようですが、先にも書いたとおり私は「射る」を否定していません。私は「的を得るが的を射るの誤用だ」と断定する誤用説をおかしいと指摘しているだけです。「得る派」と「射る派」に分かれて議論している方にはそのあたりがわかりにくいのでしょうか。

私の立場からみれば、この問題はとうに決着が付いているのですが、貴方には、「正鵠を得る」を否定し、「漢文」を否定すれば、まだ議論がひっくり返るようにみえているということなのでしょう。私にはその論は無益にみえますし、賛成もできませんが、そうした考えが世間一般にも広く通用すると本気で考えておられるなら、ご健闘をお祈りします。

いずれにしても、貴方の中ではこの問題が、「私にはわからない世界」で完結されているようなので、これ以上の返信は差し控えることにします。皮肉ではなく、貴方の論理が私にはわからないと正直に告白します。

それは別にして、単発断定のコメント連続は興味深く拝見しました。貴方のルールでは、そういうコメントをつけると、きちんと理路の部分で議論をせずとも相手の論理を否定できたことになるのでしょうか。若い方の議論は、まるで禅問答のようだと感心しました。私も歳をとったものです。


それから、

>>日本語では失と当は対義語で相互に呼応します。
「>失と当」じゃなくて「失と得」の間違いでは?

私からはこれが最後になりますが、間違いのご指摘に感謝致します。

投稿: BIFF | 2014年11月 8日 (土) 19時24分

結局、正鵠を得るが変化して的を得るという言葉になった根拠って分かったのでしょうか?
一連の記事を見ましたが決定的なものは無かったように思えます

書いてあるように本当に状況証拠だけなのでしょうか

投稿: ろうれらい | 2014年11月16日 (日) 13時41分

ろうれらい 様

「的を得る」が「正鵠を得る」からの派生なのか、「的を射る」と「当を得る」との混同のよる誤用なのか、どちらが正しいか決定的な証拠はありません。用例や意味の変遷から、どちらを取った方がより妥当かということになると思います。

ただはっきりしているのは、この十数年「的を得る」を誤用だとする説が流行しましたが、そうした断定は不合理なことだったということです。

ちょうどその辺りの変遷について、補足記事を書いたところですので、宜しければ参考にご覧ください。
http://biff1902.way-nifty.com/biff/2014/11/post-631a.html

投稿: BIFF | 2014年11月16日 (日) 21時09分

的を射る得るの正誤を調べてみようと思いこちらにたどり着きました。簡潔済みの記事にコメントを送ることご容赦ください。

ブログ主様の深い見識と、どこまでも真摯で丁寧な文章に感銘を受けました。
名文を読むと心が洗われることありますが、こちらのページでも心が洗われた思いです。ありがとうございました。

今はまだ「的を得る」という言葉を使うのは、わずらわしい指摘をされるのが怖いので「射る」を使っておりますが、いつか「得る」が復権するといいなと思っております。
(同時に自分のように、「得る」肯定派の者も怖がって「射る」ばかり使っていると、いつか本当に「得る」が消えてしまうのかな……とも思いますが)

投稿: | 2014年11月25日 (火) 10時57分

励ましのコメントをありがとうございました。

言葉の規範をどこに置くのかは難しい問題だと思うのですが、いわゆる「正しい日本語」を標榜する方たちが安易に「ことば狩り」のようなことをして、志と違い、かえって日本語の語彙を歪めてしまっているようで気になっていました。ただ恐らく「的を得る」に関しては、もう(誤用説が再び「定説」になるような)後戻りはないと思います。

投稿: BIFF | 2014年11月25日 (火) 23時04分

BIFF様
概ね決着がついた段階でいまさらかとも思いますが、私もこの問題については色々な角度から研究してきました。反的を得る派は「辞書に誤用としている」「広辞苑に載っていない」という事実を錦の御旗のごとく振りかざしまともな議論にはなりません。
私は、下記の理由で、むしろ「的を射る」こそ誤用が定着したのではないかと思っています。

まず「国会会議録」と「帝国議会会議録」より類似の慣用句の使用数を調べました。

国会における、慣用句の使用状況の変化
① 昭和8年「正鵠を得」初登場
② 昭和9年~22年
的を得   0    的を射   0   金的を射  2
正鵠を得  8   正鵠を射  0

③ 昭和22~27年
的を得   3    的を射   3  金的を射  1
正鵠を得 34   正鵠を射  2  図星    9
図星24年2月初登場
的を得25年2月初登場
的を射26年2月初登場

④ 昭和28~32年
的を得   5   的を射    9  金的を射  1
正鵠を得 59   正鵠を射  2  図星    5

⑤ 昭和33年~37年
的を得   7   的を射   19  金的を射  1
正鵠を得 40   正鵠を射 10  図星    8

⑥ 昭和38年~42年
的を得   1   的を射  39  金的を射   2
正鵠を得  26  正鵠を射  1  図星     1

⑦ 昭和43年~47年
的を得  10   的を射  60  金的を射  1
正鵠を得 37   正鵠を射  8  図星   1

⑧ 昭和48年~52年
的を得  12   的を射  39  金的を射   1
正鵠を得 22   正鵠を射  4  図星    3

⑨ 昭和53~57年
的を得   4   的を射  52
正鵠を得 23   正鵠を射 10   図星  2
 
⑩ 昭和58~62年
的を得   3   的を射  56
正鵠を得 12   正鵠を射 12    図星 1

⑪ 昭和63年~平成4年
的を得   4   的を射  45
正鵠を得 10   正鵠を射  5   図星 1

⑫平成5年~平成9年
的を得   14  的を射  62  金的を射   1
正鵠を得  17  正鵠を射  7  図星     1

⑬平成10年~14年
的を得   28   的を射   69
正鵠を得  23   正鵠を射  11    図星  6

⑭平成15年~19年
的を得   50   的を射  61
正鵠を得  24   正鵠を射  9    図星  4

⑮平成20年~24年
的を得   29   的を射  34
正鵠を得  15   正鵠を射  8  図星  1

もちろん国会内が日本語の変遷の基準になるわけではありませんが、「正鵠を得る」が長期間人気があったことと、「的を射る」が急速に人気を得たことがわかりました。

「正鵠を射る」から「的を射る」に変化したというのがBIFF殿のご意見と思いますがこのデータでは「正鵠を射る」の普及以上に「的を射る」が広がっています。
また、「的を射る」の早期使用例として
・京城日報 1918.7.13(大正7)
単純な事業の如で却々の大事業である然も此事業たるや的を射る様なものであって…
・報知新聞 1930.10.12-1930.10.17(昭和5)
それほどに鋭敏な彼の直観力さえ実際に的を射たのは十中六分で…
・神戸新聞 1936.4.3(昭和11)
まさに的を射た市の輸出補償…

などがあることもわかりました。この事実も「的を射る」は「正鵠を射る」から変化したという立場からはあまりいい情報ではありません。
国会のデータで「的を得る」の普及が遅いのは「正鵠を得る」から変化するのに時間がかかったからだと説明できますが、そうなると「的を射る」の早期普及の説明がつかないからです。
私の推測は以下のとおりです。

1.正鵠を失する、正鵠を失しないという中庸礼記・射義の言葉があった。

2.400年以上前から物理的に的を射るという言葉が日本語として発生していた。
・つまり、現在の慣用句『的を射る』を受け入れやすい状況があった。

3.しかしながら、正鵠を得ると言う慣用句が使用されるまでに核心を突くという意味で『的を射る』と言う表現は行われていなかった。

4.1800年後半ごろから正鵠を失する、正鵠を失しないという中国語をもとに、正鵠を得るが(核心を突く)という意味で使用されだした。
(ここまではBIFF殿と同じですというかパクリです。)

5.『正鵠を得る』の正鵠が的の中心を意味する事より、同じような意味で的に関係する慣用句が生まれた。
「正鵠を得る」は霞的から生まれた。
霞的とは
中心から順に中白(半径3.6cmの円)、1の黒(幅3.6cm)、2の白(幅3.0cm)、2の黒(幅1.5cm)、3の白(幅3.0cm)、外黒(幅3.3cm)の輪状に塗られているもの。本来は式正の的であるが、現在では大学弓道を除いて一般的に使われる。中心の『白円』は正鵠と呼ばれもちろん『正鵠を得る』の語源となっている。また、『式正の的』との表現よりももっとも古い的と考えられる。

星的
白地の中心に半径6cmの黒丸を描いたもので、黒丸を特に星という。
星的からは、『図星を突く』と言うほとんど同じ意味の慣用句が生まれた。

得点的
実業団の大会で用いられる。色は中心から金・緑・赤・白であり、得点は金10点、緑7点、赤5点、白3点である。

得点的からは、「金的を射る」が生まれた。
真ん中に当たれば高得点であり欲しかったものを手に入れるという意味であった。

結論
国会会議録でも、金的を射るという慣用句が、欲しかったものを手に入れるという意味で使用されています。
また、「的を射る」の早期使用例もよく見れば欲しかったものが手に入ったという意味で使用されています。
これは、「金的」というのが「睾丸」も意味するやや下品な表現になるため「的」に変化したのではないかと思われます。
また、早期の国会での「的を射る」の使用例も内容としてはほとんどが「金的を射る」の意味がふさわしい内容であり、現在の「的を射る」はよく言えば変化した、悪く言えばこちらこそ「誤用」ではないかと思います。
「正鵠を得る」「正鵠を射る」「的を得る」は同じ意味で使われていますが、「的を射る」は「金的を射る」の意味で使用されたのち「的を得る」と同じ意味に変化していったのではないでしょうか。

しかし、誤用説のスタートとなった、三省堂国語辞典が間違いを認めたというのは「反的を得る派」には手痛い出来事だったと思います。
まだまだ「広辞苑」には「的を得る」は掲載されていないと頑張るようですが、今後様々な国語テストで問題として採用されることはないでしょうね。

もしかしたら辞書業界の陰謀だったのかもしれません。この一件で私も相当の辞書を立ち読みしましたからね。

投稿: ミスターK | 2014年12月28日 (日) 15時57分

間違いをなんとかごまかそうっていうのが透けて見えて、キモい

投稿: | 2015年1月 5日 (月) 15時56分

的を得るの意味と使用例がないんですが、これどういう意味なんでしょう?
的貰っても仕方ないんですけど

投稿: | 2015年1月 5日 (月) 16時18分

ミスターK さん

返信が大変遅くなって申し訳ありません。

御説、興味深く拝読しました。特に国会の会議録で「的を射る」が思った以上に早い時期に多数使用されていたことには驚きました。

現在、私自身が用例などに当たる時間が取れないため確たる内容でお答えできないのですが、「物事の核心をとらえる」という意味の慣用表現としての「正鵠を射る」「的を射る」の登場時期については、既に私よりも遥かに遡って用例を確認されている方もあるようで、それによれば現在確認されている範囲ではやはり「正鵠を射る」の方が「的を射る」よりも早く登場しているという状況のようです。とはいえ果たして「的を得る」が、私の考えているように「正鵠を得る」→「的を得る」と変化したかどうかは証明のしようもありません。

しかしこの慣用表現について考えるときに、私は「的」という語が「物事の核心」という意味を獲得した時期が決定的に重要だと考えています。「的を射る」が「正鵠を得る」「正鵠を射る」の影響を受けていると考えたのは、「的」が「物事の核心」という意味を獲得したと思われる時期からの推定です。

結局、(変化の経過については仮説を立てたのみですが)『三国』の誤用説撤回で「的を得る」を巡る形勢が完全に変わったことで、私の中ではこの問題は決着です。

ただ今後の経過として『三国』に次いで誤用説を載せた『現代国語例解辞典』の次回新版である第5版でこの問題をどう取り扱うかについては、実は注目しています。『現代国語例解辞典』第3版に誤用説を載せた林巨樹博士は、『崩れゆく日本語』で『三国 第3版』以前に誤用説を主張した一派の一人で、2000年以降に、誤用説が世間に流行してから追随した他の辞書とは少し立場が異なるからです。

投稿: BIFF | 2015年2月 2日 (月) 20時22分

2015年1月 5日 (月) 15時56分と2015年1月 5日 (月) 16時18分のコメントをくださった方へ

返信が遅くなり申し訳ありません。

ご納得いただけるかはわかりませんが、こちらの記事をお読みください。
http://biff1902.way-nifty.com/biff/2014/11/post-631a.html

投稿: BIFF | 2015年2月 3日 (火) 18時35分

何かに抗って検証する事の大変さはよく分かります
肉体的にも精神的にも社会的にも
頑張ってください

投稿: | 2015年3月 2日 (月) 10時54分

ここの阿部高和は詭弁のガイドラインで遊んでるだけですね
そんなネットイナゴに真摯に対応していると疲れますよ

投稿: お疲れ様です | 2015年3月 2日 (月) 16時42分

「得る」と「射る」の戦いの歴史を全く知らなかったので、コメント欄も興味深く拝見しましたが、資料も示さず最後には
まともなコメントが返せなくなっていった方に比べてBIFFさんの説明の方が理路整然としており、私のような素人でも
納得できるものでした。たった一つの慣用句に対して多くの資料に当たり丁寧に検証していくその姿勢に頭が下がる思いです。

個人的には「得る」でも「射る」でも意味が通じているんだからどっちでもいいやん、という適当な気持ちだったのですが、
これからは「得る」でも間違ってないんだということを周囲にアピールしていきたいです(笑)

とても勉強になる記事をありがとうございました。


投稿: | 2015年3月 2日 (月) 17時51分

2015年3月 2日に、コメントをくださった皆様

応援のコメントをいただきありがとうございました。

正直なところ『三省堂国語辞典』の撤回がでるまでは、自分は何か大きな見落としをしているんじゃないかと不安がありました。
「調べれば調べるほど、「的を得る」が誤用というのはオカシイと明らかになっていくのに、世間では誤用説が幅を利かせている。」自分は、何か根本的な勘違いをしているんじゃないかと時々疑心暗鬼になりました。ただ当時、「正しい日本語」を標榜する方たちが安易に「言葉狩り」のようなことをして、かえって日本語を歪めていくのをみていて居ても立ってもいられずに調べ物をし、記事を書きました。

しかし今、こうして『三国』の誤用説撤回が出て、多くの人が「的を得る」が誤用ではないと納得してくれる段階になってみると、言葉の「規範」をどこに求めるか同じ日本語話者の間でも共通の理解を持つのは難しいことだと思い知らされています。

投稿: BIFF | 2015年3月 3日 (火) 07時23分

「得る」「射る」の論争に戸惑っていた者です。
自身の読書経験から、時代を遡れば遡るほど「得る」という表現が違和感なく使われていたという実感があるため、何を言われても全く腑に落ちない状態が続いておりました。
BIFF様のご論考を拝読し、ようやくのどのつかえがとれたような思いです。

一知半解で他者に噛みつく人間の多さに辟易しておりますが、そのような中でもご自身の研究成果を臆することなく発表されるBIFF様の学究姿勢には頭が下がる思いです。

投稿: 感謝 | 2015年3月 3日 (火) 10時44分

そもそもなぜ三省堂が「得る」を誤用としたかという検証をしていただきたいですね。
今後も同じことが繰り返されそうですし。

投稿: 大黒屋 | 2015年3月 3日 (火) 12時24分

感謝さん

励ましのコメントをありがとうございます。

今後、会話の途中で「的を得るは誤用だ」と揚げ足を取るような人が減っていくと良いと思っています。ただ逆に、一時的に「カウンター揚げ足取り」のようなことが流行ってギスギスした会話が増えるかもしれません。

現在「誤用説」を載せている辞書でも「誤用説」の撤回が進み、「的を得るは誤用ではない」が常識になって、このブログを誰も読みに来なくなる日が早く来るとありがたいです。

大黒星さん
コメントをありがとうございます。

『三省堂国語辞典』の編集部も当然原因の究明と再発防止対策はされていることと思います。それに採録する言葉を一枚一枚手書きのカードで操作していた時代とは違い、今では多くの文章がデータベース化されて言葉の検証も精度が上がっているので、こうしたことの再発の可能性はかなり減っていると思います。

とはいえ私にとっても『三省堂国語辞典』がなぜこのような説を載せてしまったのかが大きな謎でした。

そうしたところ現在知られている資料で最も古い時期に「的を得る」誤用説を唱えた「新聞のコラム」の筆者が、『三国』の編纂者である見坊豪紀であることがあるブロガーの方の調査で確認されたようです。

もしそうだとすると編集者自身が「発見」した「説」だったために、思い込みが先行してチェックがつい甘くなったという可能性があるのではないかと思っています。

投稿: BIFF | 2015年3月 4日 (水) 05時59分

的を得るは、的を射る前の準備の段階ではないのですか?
的を射るには弓矢とかが必要でしょ。場所も含めて、馬とかも?

投稿: | 2015年3月 4日 (水) 07時02分

2015年3月 4日 (水) 07時02分にコメントをくださった方へ

コメントをありがとうございます。

「得る」について、実は明治時代にこういう用例があります。

「此の主善なるものを学理に知悉することは、必ず吾人の一生を指導感化して、一層確実に善の目的に適中するを得せしむること、恰も弓手の狙ひをとるべき鵠的を得たるが如くならしむる所以ならずんばあらざるなり」元田作之進・高橋正熊訳 アリストテレス「倫理学」(明治41年)

「弓手の狙ひをとるべき鵠的を得たる」は「(矢を射る前に)左手(弓を持つ手)が、射当てるべき的をとらえる」という意味で、まさに射撃準備の状態だと思います。

このブログのテーマである慣用表現ではありませんし、ご指摘の状況ともちょっと違いますが、「的を射る」前の準備段階として「的を得る」ということはあり得ると思います。

投稿: BIFF | 2015年3月 5日 (木) 07時49分

BIFF殿
下品なテンプレに付き合う必要もないのですが、弓道の考え方からすると、正鵠や的の真ん中を射抜かなければならないということにはなりません。
なぜならば競技としての試合は別として、弓道で求められるのは、的に当てることそのものではなく、的に当てるための姿勢、プロセスを正しくできているかということだからです。

得点的以外では的のどこに当たっても当たりは当たりですが、そのために真ん中の正鵠や星を目標にして姿勢を作ります。
そしてその姿勢が出来た時が「的を得た」と表現します。つまり目標物を捉えたということでもあります。
矢が当たれば的中、外れれば失中と言うところなどは「反的を得る派」の言い分が正解でもありますが、矢が的の真ん中を射抜かなくても矢を射る前に「的を得た」状態ですので「得た」に当たる意味の必要は特にないということになります。
的外れという言葉があります、しかし正鵠を外すという言葉はなかったのではないでしょうか。
正鵠を失するというのは、結果として的外れなわけですが弓道の考えからすると、的を見失った、あるいは的に当てるための姿勢を失ったというのが原文の意味かもしれません。(結果外れるのですが)

正鵠に的の真ん中の意味があり、そこを射抜いた状態が慣用句の意味になっていると思われがちですが、そこにこだわるから射や中が正しいという論法になってしまうのではないかと思います。

「図星を突く」は的の真ん中を射抜いていますが、こちらの場合はたまたまでも言ったことが当たっていた場合にも使います。

欲しかったものが手に入るという意味の「金的を射る」はあまり見かけませんが、これも結果が出ている状態で、「正鵠を得る」「的を得る」とは違います。

そもそも正鵠を得るが誤用だという主張があるようですが、的を得るが市民権を得た以上に、その主張が認められるには膨大な時間がかかると思います。

広辞苑に「的を得る」が掲載される可能性はかなり高まりその時が完全決着と言えるでしょう。しかし一度掲載された「正鵠を得る」を削除させるのは相当の努力が必要でしょうし、あのような下品なテンプレでは不快感のみでしょう。(もちろん可能性はゼロではないと思いますが。笑)

投稿: ミスターK | 2015年3月 7日 (土) 17時24分

質問に対し好例を引いて丁寧にお答えになる姿勢にはただただ頭が下がります。

この、準備段階とのご質問は、一見それこそ的外れですが、(慣用)表現の意味範囲を
考えるに当たっては、とても興味深く、有用なご指摘だと思いました。
例えば、どこかのある弓道部ではその意味で「的を得る」を使っているかも知れない。
監督が部員に指導、曰く「ちゃんと的を得てから射るんだぞ」
これは彼らにとっての慣用表現と言って間違いではないと思います。
「慣用」とは「その程度の」事でしょうから。

誤用説提唱者は、ある時、「的を得る」が比喩的な派生義を纏った一連の成句だという事を
なぜか忘れてしまい、「的」と「得る」に分けて考えてしまった。
そして的の即物的な原義のみを思い浮かべ、大発見とばかりに、
「あ!的は得るモンじゃない、射るモンだ!間違ってるじゃないか!」
とまあ、この程度の事だったんじゃないかって思います。

誤用説支持者も、色々と論拠を挙げて誤用だ誤用だとやってますが、彼らにとっては
「的を射る」こそが(根拠や経緯とは関係なく)もはや慣用句なのかも知れません。
かく言う僕も一時期、それを慣用しそうになっちゃってました。
ただ今は自身を、誤用説を信じそうになった被害者だと認識しています。

慣用句に語法上の無謬性を求める事には殆ど意味は無いと思います。

投稿: 似非無頼 | 2015年3月 7日 (土) 17時47分

わっ!びっくりしました。
自分のコメントを送信した後に、弓道にお詳しいミスターKさんのコメントを読みました。
「どこかのある弓道部」どころか弓道の世界では普通に行われる表現だったんですね。
源流はそこかも知れませんね。
ミスターKさん、勉強になりました。

投稿: 似非無頼 | 2015年3月 7日 (土) 18時07分

ミスターK さん

コメントで、色々と深い話をご教示いただいてありがとうございます。

私は弓道の知識は全くないのですが、いただいたコメントを読んでいて、昔オイゲン・ヘリゲルの『日本の弓術』を読んで、「弓術の凄まじさ」に、まさに総毛立つような感動を覚えたのを思い出しました。

実は、ブログ記事を書くときに「正鵠」の用例がないかと『日本の弓術』を読み返したのですが、岩波文庫の訳本には「的」しか使われていなくてちょっとがっかりしました。もともと自分に都合のよい材料を探す「邪な心」で読んではいけない本でした。

「的外れ」も仰るとおりで、この場合の「的」には、古くは「ねらい・めあて」の意味しかありませんでした。「的外れ」は「物事の核心を(惜しくも)とらえそこなった」ではなくて、「(はなから)狙い自体がずれている」「(まったくの)見当違い」という意味が本来だったと思います。

「図星」「金的」についても大変勉強になりました。重ねて御礼申し上げます。

似非無頼 さん

コメントをありがとうございました。

「慣用」の解釈が、一般的な「慣用表現」「慣用句」と少し違っているような気もしますが、オリジナリティと臨場感の溢れる考察が参考になりました。ありがとうございます。

ところで、件の誤用説提唱者(1969年の読売新聞コラムの筆者)は、私など及びもつかない高い調査力を備えた方たちによって、見坊豪紀さん(『三省堂国語辞典』主幹)だと特定されています。

西練馬さんのツイート
https://twitter.com/nishinerima/status/536460186781614080

kumiyama さんのブログ記事(下の方の補足)
http://kumiyama-memo.hatenablog.com/entry/2014/05/24/223830

つまり、誤用説は『三省堂国語辞典』の編集主幹自身が発見提唱した可能性が高いということです。

私は、どうして検証の厳しいはずの『三国』に誤用説が載ったのか疑問だったので、これで謎が解けたような気がしています。編集主幹自身が発見提唱した説だったので微塵も疑いを持っておらず、あっさり編集会議を通過したというのが真相だったのではないでしょうか。

ただ当初の誤用説の根拠は、「的は射るもの」という日本の伝統的なコロケーションだったので、この時点では「「的」と「得る」に分けて考」えたということはなかったと思います。

投稿: BIFF | 2015年3月 8日 (日) 08時17分

Googleトレンドという統計の道具を使って「的を得」と「的を射」の検索語での使用実績を調べてみました。
(ヒット数を増やす為に活用語尾を省きました)


http://www.google.com/trends/explore#q=%E7%9A%84%E3%82%92%E5%BE%97%2C%20%E7%9A%84%E3%82%92%E5%B0%84&cmpt=q&tz=

標本数が百足らずではありますが、(話し言葉も含めた)実状もこれにある程度近似するだろうと思います。
「的を射」の方に上昇傾向が見え、「的を得」に肉薄してしている様です。
これらの言葉の実際に誤用説撤回が有意に影響を与えている事は少なくともこの統計からは窺えず、
「的を射」という言い回しの生成過程はさておき、これが「的を得」と同程度に慣用されているのが現状の様です。

投稿: 似非無頼 | 2015年3月16日 (月) 15時23分

似非無頼 さん

コメントで、いつも情報提供をありがとうございます。

私も試してみましたが、何故か「的を得」よりも「的を得る」の方が検索ワードとしての実績が高いですね。ちょっとその辺りの仕組みが分かりません。

http://www.google.com/trends/explore#q=%E7%9A%84%E3%82%92%E5%B0%84%2C%20%E7%9A%84%E3%82%92%E5%B0%84%E3%82%8B%2C%20%E7%9A%84%E3%82%92%E5%BE%97%2C%20%E7%9A%84%E3%82%92%E5%BE%97%E3%82%8B&geo=JP&date=1%2F2008%2087m&cmpt=q&tz=

でもそれはそれとして(先日の千客万来時を除くと)私のブログは八割以上の方が「検索」の結果を元に来訪されているのですが、Googleのこの統計はほぼ体感に近いです。(検索エンジンはYahooとGoogleが圧倒的に多く、普段の来訪者は100~250人/日くらいです)

それから私の主観では「検索される言葉」と「日常使われる言葉」の使用頻度は、必ずしも比例しないと思っています。むしろどちらかと言えば、検索される内は、まだまだその言葉が常識として知られていないということで、「的を得る」が本格的に復権するのは検索されなくなった(もう多くの人が検索しなくても「誤用とはいえない」と知っている)ときではないでしょうか。

というわけで、私としては気長にその日を待ちたいと思います。

投稿: BIFF | 2015年3月17日 (火) 12時40分

某ラジオで、「的を得る」の誤用説撤回について言及があり、検索の結果こちらにたどり着きました。
大変勉強になりました。

まだ私のように、この「的を得る」復権の第一歩を知らない人も多かろうと思いますので、
少しでもこの話が広まってくれれば、と思います。

投稿: 物欲 | 2015年4月24日 (金) 12時07分

物欲 さん

コメントをいただき、ありがとうございました。ラジオでも「的を得る」の問題が取り上げられたんですね。

そうしたきっかけで、いわゆる「正しい日本語」を標榜する「言葉狩り」が、「正しい日本語」の普及どころか日本語の語彙を歪めたり、会話の豊かさや余裕を奪う結果になって来た現実に気づく人が増え、だんだんと会話の最中の不毛な揚げ足取りが減っていくと良いなと思います。

投稿: BIFF | 2015年4月25日 (土) 00時15分

先ほどNHKのEテレで映像作品が放送されておりました。
特に見ていたわけではないのでどのような番組だったのかはよくわからないのですが、
歌に乗せて日本語の間違いを指摘するような作品でした。
その中で日本語の間違いの例として「的を得る」が挙げられていました(正しくは「的を射る」だとされていました)
後は何があったか忘れましたが、
的を得るについてはこれ正しいんじゃないの?と思い検索してみた所、本ページにたどり着き、現状を知ったところであります。

以前から「的を得る」と「的を射る」が同じ意味を持つ表現としてどちらかが誤用なのだと対立があったのは知っていました。
私は「射る」方が誤用なんだろうと思っていました。
なぜなら、現代の日本語では的は得るものではなく、射るものからです。
全ての物事はポテンシャルの低い方に落ち着くというか、より単純な方向に収束していきます。
言葉も同じく、より簡単な、よりしっくりくる方に落ち着くものだと思います。
背景を知らない人が納得できる表現をする場合に、
物事の核心をとらえる慣用句として「的を得る」より「的を射る」の方が背後の意味合いがよりスッキリしているため、
どちらかが誤用だとすればこちらだろうなと思っていました。
この考え方では説明できない誤用(というか意味の変化)もありますので、一概には言えないのでしょうが
「的を得る」と「的を射る」の場合、私は「得る」には「正しく当てる」のような意味があるように思えたので、
「的を射る」が正しいとされても頑なに「的を得る」を使っていました。

本日、BIFF様の調査結果から「的を得る」が誤用というのは間違いだということが日本語の研究の分野でも認められている現状を知り安心しました。
さらに「的を射る」が誤用だという言い方もできないと認識いたしました。
私の考え方は例外も多そうだし非常に危険で、やはりしっかり勉強することが大事なのだと改めて感じた次第であります。

最近、○○は誤用で正しくは××だと日本語の見直しがブームであることは何となく感じています。
正しい言葉づかいとは非常にやっかいで、そもそもそんなものないような気がします。
その一方で他人に自分の言いたいことを伝える場合、統一された言い回しをしなければ理解してもらえません。
「的を得る」も「的を射る」もどちらも同じ意味を表す言葉で、誰に言ってもその意味が伝わる表現だと思います。
問題はどちらが起源となっているかと言う点のみです。全く別に起源で生まれた表現かもしれません。
そのような言葉を誤用と片づけるのは一種の差別のような気がします。

投稿: 学生26 | 2015年5月 6日 (水) 01時37分

学生26 さん

真摯に考察を重ねたコメントをありがとうございます。

私は「的を得る」を巡る一連の出来事には、不幸な偶然も絡んでいたと思っています。その中でも、最も大きな要素は「「的は射るもの得てどうする」という説明が、誰にもたいへん分かりやすかった」という点だと思っています。一度聞けば誰でも理解できる、そのため何の知識も持ち合わせていない人でもただ一言で説明できる。誤用説のこの単純明快さが、その後の流行の大きな要素だったと思います。

そして「すでに「的を得る」という表現が広く普及していた」ことが、逆に「的を得るは誤用だ」と指摘する行為の価値を高めていました。素朴な正義感から「正しい日本語」を広めたいという思いを持つ人にとっても、人の揚げ足を取って手軽に優越感を楽しみたい人にとっても、「的を得る」は格好のテーマになってしまいました。何しろよく使われていた表現なので、「誤用」と指摘する機会は多かったはずです。

そうした下地があるところに『三省堂国語辞典』が誤用説を取り上げてしまったことが、恐らくその後の推移を決定的にしました。

林大博士のように、一部で「誤用説はオカシイのではないか」という指摘がありましたが、一般の人はそのようなことは知る由もなく。これだけ条件が整い、「国語辞典」のお墨付きまで得た誤用説は、それを疑っても反論の余地がなかったと思います。

ご指摘のとおり言葉の正誤の問題は難しく。「的を射る」を正用とするなら、例えばよく指摘される「敷居が高い」を「格式や高級感で入りにくい」という意味で使うのは誤用だという説が妥当かどうかという基準も怪しくなります。400年前、「的を射る」には「物事の核心をとらえる」という意味がなかったのは確実で、最近100年くらいの間にいつの間にかこの意味を獲得したのも間違いないからです。途中で本来とは違う新し意味を獲得した「的を射る」は、最初から正用だったのか、あるいは最初は誤用でいつの時点かで正用に認められたのか、そうした問いに答えられなければ、「的を射る」は正用で、かつ「敷居が高い」は誤用だとは主張できません。

私自身は、言葉は「正誤」という観点ではなく、通用性(誤解なく伝わること)と、有用性(意味を伝える役に立つこと)を勘案して判断するのが良いのではないかと思っています。例えばよく指摘される「役不足」「やおら」などは、誤用の普及によって容認が進んでいますが、もともとは誤って使うと誤解を招く点では大変問題のある言葉だったと思います。反面、先程の「敷居が高い」や「確信犯」については、誤解の恐れは少なく、むしろ新しく意味が加わることで的確に意味を伝えられる機能が高まり、日本語の語彙としては歓迎すべき種類の変化ではないかと思います。

例えば「悪いことだと承知でそれをする人」のことを、「確信犯」と表現する以上にうまく伝える語が日本語には存在せず、またまず誤解なくその意味を伝えられるなら、この変化は日本語の進化だと思うのです。

またこれもご指摘のとおりで、言葉のこうした変化を安易に「誤用」と決めてかかる原理主義的な「正しい日本語」という考え方は、他ならぬ日本語にとって大変有害だと思っています。 

投稿: BIFF | 2015年5月 6日 (水) 11時06分

三省堂は国語辞典界の東スポだと言われるくらい
「汚名挽回」だとかいい加減な言葉を載せている辞典なのに
それ取り上げて「的を得るは間違ってない」と言い始めるのはいかがなものかと。
すべての辞典がその話を採用してから始めて「的を得るは正しかった」というべきだと思います。

逆に広辞苑などの三省堂以外の辞典がそれを正用だと記載していない理由についてはどうお考えですか?

投稿: | 2015年5月10日 (日) 19時30分

2015年5月10日 (日) 19時30分にコメントをくださった方へ

『三省堂国語辞典』が辞書界の東スポと言われているという話は初めて聞きました。少なくとも専門家でそういう人はいないのではないでしょうか。

「汚名挽回」を誤用とする説もありますが、語法的におかしくないという説もすでに有力です。かなり規範側に踏み込んでいる『明鏡国語辞典』でも両論併記しています。

また私自身は「的を得る」は正用だと考えていますが、コメントをいただいたこの記事は「的を得るは正しい」ということではなく「誤用説が俗説であることが確定した」ということを書いたものです。次の記事にも書きましたが、以下の事実を述べたものです。

※「俗説」というのは、「確かな根拠もなく、世間に広まっている説」という意味です。ですから必ずしも「俗説=完全に否定された説」というわけではありません。これまであたかも「定説」のように扱われてきた「的を得る」誤用説が、『三省堂国語辞典』の再検証・撤回で、実は根拠の曖昧な「俗説」であったとほぼ決まったということです。

そして「的を得る」は、『三省堂国語辞典』が採録する以前、すでに2002年には『日本国語大辞典』に「見出し語」として立項されています。(もちろん誤用の注記はありません)従って、「三省堂以外の辞典がそれを正用だと記載していない」というのは誤りです。
※平成22年には大阪の教員採用試験で「的を得る」の正誤を問う問題がいったん出されましたが、その後撤回されています。5年前の時点で、自治体の正規の試験に「的を得る」を誤用と断定する出題は困難であったということです。

「的を得る」の現状を公平にみると

・「的を得る」を誤用とする説はある。
・「的を得る」を正当な表現だとする説もある。
・いずれにしても「的を得る」は誤用とは断定できない。

ということになると思います。

あくまで素人の個人的な見解ですが、今後は「的を得る」を誤用とせずに採録する辞書、誤用説を撤回する辞書は増えてくると予想しています。

投稿: BIFF | 2015年5月10日 (日) 22時06分

はじめまして。
検索からたどりつきました。

個人的に的を射るを使っており、得るは誤用だと思っておりました。
ただ、それに対して揚げ足を取ったり、議論したりという趣味はなく、もう市民権を得ているのだろうなぁぐらいの認識でした。

誤用ではないと学び、今後はその認識で参りたいと思います。ありがとうございました。

ただ、個人的な本音を申しますと、言葉とその背景の奥深さ、おもしろさという切り口では、薄まってしまうような気がして残念に思います。
狙いをはずさない→要点を得るという意味で、語源としては「的を射る」だけでもいいのになぁ…

投稿: ゆう | 2015年5月24日 (日) 08時00分

ゆう さん

コメントをありがとうございました。

以下、「慣用表現「的を得る」の当否(誤用とすることの当否)」というこのブログのテーマからは離れてしまうのですが、私自身は、最近「的を得る」という表現には意外な奥深さがあると考えています。

昔、オイゲン・ヘリゲルの『日本の弓術』を読んだときに、何度読み返しても今ひとつ理解できなかった弓術の極意の説明に「(無我に至れば、放つ以前に)矢は有と非有の不動の中心に、したがってまた的の中心にあることになる」つまり、この極意を体得した射手にとって「矢は中心から出て中心に入ることになる」だから「的を狙わず自分自身を狙うことで、自身と仏陀と的とを同時に射中て」られるというものがありました。(岩波文庫版で43頁)

こうした弓術の極意と、例えば明治期の文書に出てきた用例「弓手の狙ひをとるべき鵠的を得たる」((矢を射る前に)左手(弓を持つ手)が、射当てるべき的をとらえる)が意味している射撃前に「的を捉える」などを考え合わせると、「正鵠を得る」(「的を得る」)には単に物理的に「矢を放って的に射当てる」という以上の深い意味合いが感じ取れるように思います。

つまり「的を得る」には、物理的に「矢を的に当てる」だけでなく「的(物事の核心)を本質から捉える」というニュアンスが内在していると感じられるのです。そのため「物事の核心をとらえる」という慣用表現としては私は即物的な「的を射る」よりも、より高い観念を含んだ「的を得る」が相応しいような気がします。

また、次の記事「補足:「的を得る」誤用説 と「的を得る」の元は「正鵠を得る」説 の比較検討」にも書きましたが、もともと中国では「的」の意味だった「正鵠」が、10世紀に日本に渡来し最初に使われたときの意味は「物事の核心」でした。「正鵠=物事の核心」であれば、それを「射る」では表現としてはあまりにチグハグで「得る=捉える」がより適切でした。

「誤用説」風に言えば、「物事の核心は得る(捉える)もの、射てどうする」ということになるでしょうか。

もちろん、私は「正鵠=的」という認識で、「正鵠を射る」「的を射る」を間違った表現とは考えていません。実用上「的を得る」も「的を射る」も慣用表現としての意味に差はなく、誰もが自分の好む方を使えば良いと思います。上記は、まってく私個人の「的を得る」へのイメージに過ぎません。

投稿: BIFF | 2015年5月24日 (日) 12時03分

NMBとまなぶくんという番組で言語学者町田健が的をえるは誤用とはっきり言ってました
最近は使う人が多いから辞書が折れて辞書にも載せていると言ってました。
腹立たしいと思いましたが、受け入れるしか無いですねこの番組を見た人がまた誤用説を信じてしまうでしょうね

投稿: | 2015年5月31日 (日) 23時25分

2015年5月31日 (日) 23時25分にコメントをくださった方へ

文化庁の(「的を得る」を誤用とした)調査結果を見ても、この15年間に普及したのは「的を得る」誤用説の方で、「的を得る」は普及するどころか、誤用説に押されて絶滅しそうになっていたことははっきりしています。そうした事実を踏まえれば、世間に「的を得るは誤用」という認識が広く普及していたにも関わらず、『三省堂国語辞典』がきちんと再検討して誤用説を撤回したことを、「辞書が折れた」と評してしまっては「的はずれ」ですね。

ほんとうに「言語学者」(それも生成文法の権威)がこんな不正確な発言を公共の場でしたのだとしたら、ちょっと困ったものだと思います。

上記の事実誤認は別にして、もし本当に町田氏が「的を得る」が本来誤用だというなら、その根拠をどう説明するのかはとても興味があります。「的を得る」を誤用と断定する人はたくさんいますが、誤用と断定できる根拠をきちんと示した例はみたことがないので。

投稿: BIFF | 2015年6月 1日 (月) 13時40分

はじめまして。3月の飯間さんとのツイッターのやりとりをtogetterで見かけてこちらのブログを知りました。同時に、初めて2013年の「的を得る」誤用説逆転事件を知り感動しております。良かったですね。
そして、このブログでの筆者さんのご尽力を拝見して頭が下がる思いです。すばらしい。

私は幼い頃から「的を得る」という表現しか使ってこなかったのですが、2000年頃の誤用説を聞いて、それを信じて「的を射る」という表現に切り替えたクチです。しかし何度か使ってみてしっくりこず、最近では両方の表現を使わなくなっていたので、逆転事件を知れて本当に良かったです。

ちなみに、私の個人的な美感で「的を射る」という言葉が馴染まなかったのは、そこに表現としての「ダサさ」「気恥ずかしさ」「くどさ」を感じたからで、好みとして今後も「的を射る」は使わないと思います。

思うに、本来「射る」とは矢をつがえ放つ事を表す言葉で、的中させる意味で「射る」と言う時は、状況や立場から単に矢を放つ意味ではないとはっきり分かる状況に限られているのではないかと。(そうでないと実用上に混乱が生じてしまうので。)例えば義経が与一に「射よ」と言えば、それが「射中てよ」という命令であることは誰でも分かります。
そうした事から、的中させる意味での「射る」とは、「射る(矢を放つ)行為」が必然的に「標的を定める行為」を伴い、狙って射るからには「中たる」事が当然に期待されるという性質から、「射中てる結果」を連想させる一種の比喩表現のようにも思います。

私としてはそういう感覚なので「的を射る」となると、物事の核心を的に喩えた上で更に射るという比喩(射るんだから当然に中たるでしょ?という比喩)が重ねられている様に感じられ、ある種書き手の独りよがりとなる過剰な比喩、回りくどい表現に感じてしまうのです。
ところが「的を得る」であれば、的→核心という1000年以上(?)の歴史がある定番の比喩を用いてるだけなので、さりげない小粋な比喩として気兼ねなく使える気がします。

それから、今回「射る(矢を放つ)」と「射る(的に当てる)」の使い分けがどうされているかと考えた時、自然と「射中てる」「射得る」の様な言葉があるのではないかと思い検索してみたところ、「射得たりや、おう」という言葉が見つかりました。これは平家物語の中で頼政がヌエを仕留めた時に叫んだ「矢叫び」として使われていたり、今でも神事の際に矢を放つ時に叫ばれていたりするそうです。他には小笠原清信という方の「射術の基本 実利の射と云う事」の中でも「的中とは、射得たりやの心の響きである。」という一節があるようですが、弓術の心得が無い私としてはちょっと意味が分かりません(苦笑)。
また、射撃に限らず「得たりや、おう」という叫びは、敵をうまく仕留めた時全般で使われていた言葉のようです。
現代風に言うと「もらったー!」とか「きたー」とか「カモン」とか「Yes」とか「アガッチュベイべ」のようなニュアンスでしょうか。

こうした事から考えると、本来弓矢は的に当てようとただ射ているうちはそうそう当たるものではなくて、的を得てこそ当たるもの、あるいは的を得れば自ずと当たるもの、などと言えるのではないかと、素人ながらに想像できます。
そういうわけで、あらためて「的は射るもの得てどうする」という指摘の的外れ具合にげんなりする所存です。

投稿: Alcyone | 2015年6月22日 (月) 01時31分

Alcyone さん

洞察と示唆に富んだコメントをありがとうございました。

私自身は「的を得る」と「得たり」(「得たりや」「得たりやおう」)を関連づけて考えたことがありませんでしたが、Alcyone さんの説明を読ませていただいて、改めて「得る」と「射る」の内包する意味の違いを実感しました。

そこから展開された「的を射る」と「的を得る」の語感の差についての考察も大変興味深く、共感を持って読ませていただきました。ご指摘のとおり「的を射る」という表現の即物的な面白みのなさは、「的を得る」という表現に馴染んだ人には広く共通する感想だと思います。

しかし誤用説の影響下で、「的を射る」が正解と教わって育った若い方達にはこの感覚が共有されていないのも現実です。残念ながら「正しい日本語」という浅薄な「思想」と、それに同調した「ことば狩り」が日本語に残した爪痕が消えるには相当な時間が掛かりそうです。

「的を得る」を巡る経緯から学んで、母語の規範を尊重することと、怪しげな蘊蓄を鵜呑みにして「正しい日本語」を振り回すことの区別は、しっかりつけていきたいと考えています。

投稿: BIFF | 2015年6月27日 (土) 16時38分

>・しかし「物事の核心をとらえる」という意味の慣用表現「的を得る」とは無関係の話です。例えば、今回「的を得る」を採録した『三省堂国語辞典 第7版』では「得る」を「うまく捉える」の意と解釈しています。「的を得る」が「物事の核心をとらえる」意味として使われるとき、「的」は「弓の的」ではなく「物事の核心」という意味ですし、これに呼応する「得る」が「当たる」という意味である必要はありません。

正当性についてはその基準により変わると思うので間違いと言い切れないことは分かったのですが、
この文を読むと「的を得る」という言葉自体がまず出来の悪い慣用句だと感じるようになりました。

また、そんな「的を得る」という慣用句が正しいか正しくないかを論点にしていることもバカバカしく思うようになりました。

物事の核心をとらえるという意味の的を使った慣用句なら
もっとスカッと分かりやすく、語感も字面もカッコ良く、1つの言い回しで十分と思える、そんな言葉が理想だと思います。

投稿: | 2015年7月26日 (日) 04時49分

2015年7月26日 (日) 04時49分 にコメントをくださった方へ

「的を得る」を「出来の悪い慣用句」だというのは、「個人の感想」なのでそれで良いと思います。本来、ことばは、だれでも自分の語感に合わせて好きに選んで使えばよいのです。

しかし『三省堂国語辞典』が誤用説を撤回する2013年12月まで、世間では「的を得る」誤用説は「定説」のように扱われ、「的を得る」は誤用とされて自由に使うことができない状態になっていました。俗説の流行によって日本語の語彙が不当に歪められようとしていたわけです。その「歪み」に重要な修整が入ったことを、お知らせするのがこの記事の目的でした。

確かにおっしゃるとおり、誤用説が「俗説」であったと確認された今となっては、「「的を得る」という慣用句が正しいか正しくないか」という論は、どうでも良い話です。いえ、むしろ根拠薄弱な俗説が世間で大手を振って語られていたこと、そんな俗説が人の使うことばに干渉していたことが、最初からバカバカしかったのだと思います。

そのことに気付いていただいたのなら、私もこんな記事を書いた甲斐がありました。

投稿: BIFF | 2015年7月27日 (月) 18時35分

長々読んだけれど、結局「偉い人が認めた」ってだけじゃないか
新しいや重複と同じパターン

投稿: | 2015年8月24日 (月) 16時15分

2015年8月24日 (月) 16時15分 にコメントをくださった方へ

>結局「偉い人が認めた」ってだけ

そうではなくて、定説のように誤用とされていた「的を得る」は、「昔、偉い人が間違って誤用としただけ」と判明した事例です。

根拠の曖昧な誤用説を国語辞典が取り上げたせいで、「的を得る」が「ことば狩り」に遭ったことは痛恨の出来事だったと思います。しかし、日本語から「的を得る」が消滅する前に『三省堂国語辞典』が訂正を出してくれたのは幸いでした。

投稿: BIFF | 2015年8月24日 (月) 17時56分

単に、もう世間一般でまかり通ってて、出発点が誤用だどうだとか、
そういう議論をする段階は過ぎたって事でなし崩し的に辞書に載っただけの話じゃん

「辞書に載せた=以前に誤用と判断したのを間違いだと認めました」 では無いでしょう

投稿: | 2016年3月 7日 (月) 02時36分

2016年3月 7日 (月) 02時36分 のコメントをくださった方へ

誤解されているようですが、世間一般でまかり通っていたのは「根拠のない誤用説」の方で、この俗説を鵜呑みにした人が多かったせいで「的を得る」は2013年の段階では絶滅の危機に瀕していました。

「的を得る」が如何に追い詰められていたかは、文化庁の「平成24年度「国語に関する世論調査」の結果の概要」の23ページのグラフを見れば誰の目にも明らかです。(http://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/kokugo_yoronchosa/pdf/h24_chosa_kekka.pdf)

こうして「的を得る」が「まかり通る」どころか「絶滅の危機」に瀕している中で、20年ほど前までは日本であまり使われていなかった「的を射る」という表現が歴史上もっとも普及して主流になってきている状況で、2013年12月に『三省堂国語辞典』の誤用説は撤回がされたのです。

記事にも書きましたが、『三省堂国語辞典』の飯間浩明さんは、以下のように述べられています。

----------------------------------------
「的を得る」は「的を射る」の誤り、と従来書いていたけれど、撤回し、おわび申し上げます。」(https://twitter.com/IIMA_Hiroaki/status/412139873101807616)

----------------------------------------

また飯間さんは、他のツイートで的を得るの使用状況の追加資料を揚げながら、

----------------------------------------
「遅きに失しましたが、『三国』第7版では誤用説を取り下げました。」(https://twitter.com/IIMA_Hiroaki/status/597784476928712704)
----------------------------------------
ともメモされてます。


「「的を得る」が普及したから、なし崩しに載せた」というのはまったくの事実誤認ですし、『三省堂国語辞典』の編集部は、誤用と断定したことを間違いであったとはっきり認めています。

以前、他の記事のコメント欄でテレビによく登場する進学塾の講師(林修さんという方のようです)が、テレビで「的を得るは誤用」といっていると教えていただきましたが、この林さんもつい先日(2016年3月3日)のテレビ番組で、「今は的を得るも正解」と訂正されたようです。

私はその番組を観ていませんが、ツイッターで内容を紹介していた方の話では、「「正鵠を得る」という表現がもともとあり、正鵠とは的の中心のことなので、それが変化して「的を得る」と言うようになってもおかしくない」という説明をされていたようです。こちらの方も「「的を得る」が広まってしまったからなし崩しになった」などと、いい加減なことは言っていないようです。

投稿: BIFF | 2016年3月 7日 (月) 06時35分

私は「得るは誤用」派ですが、三省堂の編集者が誤用とは言えないということを書いていると知り、少し驚いています。
私が得るは誤用だと思うのはそもそも「得る」とは「手に入れる、自分のものにする」という言葉であり、
的は射抜いたところで自分のものになるわけではなく、手に入れられるのは射抜いた獲物や的の得点という結果であり、的そのものに当てるという表現には論理的に合わないと考えているからです。
だからこそ弓道の話でも「的を得る」は矢を射る準備が整ったことを言うのでしょう。
言うなれば「当を得た」「正鵠を得る」の混用という決めつけではない誤用派ですね。

私は無知で「的を射る」「的を得る」の歴史的なな根拠は持ちませんので、貴方と 阿部高和氏とのコメントを興味深く見させてもらいました。
それらを含めいくつか疑問に思ったことを書かせて頂きます。

>。私は「正鵠を得る」が正用であるという常識を前提に検証をしています。
>貴方が、すでに一般に正用と認められた「正鵠を得る」に対する異論を唱える分には何の支障もありませんが、
>世間で支持もされていない珍しい異論を前提にして議論を仕掛けられても、私にはどうしようもありません。

「正鵠を得る」が仮に誤りだとしても現在の日本では正用だから、「的を得る」も正用だと言うことでしょうか?
正用か誤用かの論理的な根拠の論戦に於いて、前提自体が間違っていたら説得力を持たないと思いますが。
間違っていたものを基にしたものが正しいというのは論理的におかしいでしょうし、
間違っていたものが制度的に正しいとされたからと言って、そこから派生したものが論理的に正しいというのは無理があります。
「本当は誤りだけど、慣例的使われるから正しいとしよう」となったものから派生したものはやはり「本当は誤り」であり、
それを「正しいことにしよう」と言うのであれば、理由は慣例という制度的なものであるはずですが、貴方は慣例的な理由を否定しています。

>「的を得る」誤用説が、いかに「まともに相手にされていなかったか」という例を補足しておきます。
----------------------------------------------
「的を得る」は「当を得る」との混交によるものだ、とする説に対して、『言泉』編者の林大さんは、
「そう言われていますね。それでもいいんだろうけれど、ぼくは、どちらかと言えば、『正鵠を得る』
の方が影響が大きいと思うな」と言う。
( 『今様こくご辞書』 石山茂利夫 1998年 読売新聞社)
----------------------------------------------
>この話が載っているのは1998年の書籍なので、既に『三省堂国語辞典』の誤用説掲載も前提になっていますが、
>「誤用説は知ってますよ。まぁ、そう信じるのは勝手だけれど、「的を得る」の元は「正鵠を得る」でしょう」とあっさり切り捨てています。

これは「『的を得る』誤用説が、いかに『まともに相手にされていなかったか』という例」ではなく、
「『的を得る』は『当を得る』との混交とする説がいかに『まともに相手にされていなかったか』という例」ですよね。
林大氏は「『的を得る』が誤用かどうか」を言っているのではなく、「『的を得る』の元が『当を得る』なのかどうか」を言っているに過ぎません。
これを誤用説が相手にされていたかどうかの例として出すには不的確だと思いますが?

>確かに中国語では「花は開く」ものです。そして「咲」という漢字は元来「笑」と同義の文字で、
>中国語では「さく」という意味を持っていません。「さく」は「咲」という漢字が渡来してから、日本で独自に付加された意味です。
>そのため中国語には当然「花が咲く」という表現はありませんが、それが日本語で「咲」を「さく」と読むのは間違いであり、
>「花が咲く」という表現も間違いである、という根拠になるでしょうか?

「花が咲く」は元々中国の「鳥鳴花咲=鳥なき花わらう」という慣用句から、日本で「さく」意に転用されたものだそうです。
当然、この「花わらう」は「花がさく」ことを意味していますので、日本で独自に付加された意味ではないようです。
なので「花が咲く」は表現として間違いではないと言うことになりませんか?

>繰り返しますが、中国語の表現に「ある」「ない」は、日本語の表現の正否の判断基準にはなり得ません。

大本が中国の慣用句を元にしたものと日本語として生まれた言葉を混同しているように感じますが?
元々が中国の言葉ならば、中国の言葉の意味が本来は正しいのであって、それが日本でどのように使われようと、「間違っている」と言われることを制限するものではないでしょう。

>・しかし「物事の核心をとらえる」という意味の慣用表現「的を得る」とは無関係の話です。
>例えば、今回「的を得る」を採録した『三省堂国語辞典 第7版』では「得る」を「うまく捉える」の意と解釈しています。
>「的を得る」が「物事の核心をとらえる」意味として使われるとき、「的」は「弓の的」ではなく「物事の核心」という意味ですし、
>これに呼応する「得る」が「当たる」という意味である必要はありません。

上にも書きましたが、「物事の核心を捉える」のはその射た結果であって、当てる行為そのものではありません。
行動と結果を混同しているように感じます。
例えば記者会見の場合、相手(的)に鋭い質問(矢)をし(当)て重要な部分(核心)を答えさせる(捉える)のであり、
警察は事件で捜査し(矢を射)て証拠(核心)を得(捉え)るのです。
「核心を突く」ことと「核心を捉える」ことは違います。

>「得正鵠」が日本から伝わった表現だとすれば、中国でもその表現が容認された証拠でしょう。
>・「正鵠を得る」を「諸悪の根源」と主張するのは自由ですが、賛同する人は少ないでしょう。

よく言われる話ですが、
容認することや賛同する人が多いかどうかと、それが正しいかどうかは全く関係ありません。
多かろうが少なかろうが正しいなら正しい。誤りなら誤りです。

あと、 阿部高和氏の
>>「失せず」と読んでも構いませんが、「正鵠を失わず」は、漢文では通常の訓読です。誤訳でも何でもありません。
>失わずだと意味が通らない

>>「中国語にない表現だから日本語として間違い」という主張が根本的に成り立たないことは議論の余地がありません。
>洒落が成立しないから。語源と今の使われ方は違うから。最初から正しい言葉と間違いだが正しくなった言葉は違うから

>>これは言語に普遍的な現象であって、決して「間違い」などではありません。
>日本人が意味を理解せずに推測で勝手に意味を決めただけの漢語たちって一体…。
>ワイシャツにされちゃったホワイトシャツとかなんなの
>漢語で構成された漢文を、日本人が日本語でもないのに漢語に勝手に決めた間違った意味で読むのが「間違いではない」って、
>それ文化じゃなくてただの勘違いだから

これらに返答が出来ていないように思えます。

以上の事柄についてどのようにお考えでしょうか。

投稿: 置きみやげ | 2016年3月17日 (木) 03時30分

連投済みません。
一つ書くのをわすれていました。

>誤解されているようですが、世間一般でまかり通っていたのは「根拠のない誤用説」の方で、
>この俗説を鵜呑みにした人が多かったせいで「的を得る」は2013年の段階では絶滅の危機に瀕していました。
>「的を得る」が如何に追い詰められていたかは、文化庁の「平成24年度「国語に関する世論調査」の結果の概要」
>の23ページのグラフを見れば誰の目にも明らかです。
>(http://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/kokugo_yoronchosa/pdf/h24_chosa_kekka.pdf)

拝見しました。
リンクされている資料の22頁にはこう書かれています。

3)「物事の肝腎な点を確実に捉えること」を
(a)的を射る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・52.4%
(b)的を得る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40.8%

約41%もあります。どう頑張っても絶滅の危機に瀕しているとは見えないのですが?
例えば携帯電話のシェアはドコモ40%強、KDDI30%、SB30%弱です。
ですが、KDDI・SBが絶滅の危機に瀕していると見る人がいるとは思えません。
2013年とのことでしたので翌年のことを含めて話されているのかもしれませんが、
一年で何十%も変わるとは考えにくく、数値の低い10代のことを指摘しているとしても
10代はまだ考えが固まっている年代ではないため、成長するにともない数値が増えていくと見るのが普通です。
これを「絶滅の危機」と言うのは明らかに恣意的だと感じますがどうでしょうか。

投稿: 置きみやげ | 2016年3月17日 (木) 04時37分

置きみやげ さん

長くなりますが、以下、順不同で内容別に区分けしながらご指摘に回答させていただきます。
--------------------------------------------
最初に「的を得る」が絶滅寸前であったことを説明してしまいます。

私は平成24年調査の年齢別実態グラフを見れば十分「的を得る」の危機的状況を読み取れると思いますが、貴方から異議の表明があったので対比用に平成15年調査について補足しておきます。

私が誤用説を知ったのは2000年頃でしたが、その時は「このような俗説は、すぐに消えてなくなるだろう」と気にとめませんでした。それが10年も経ってから「的を得る」誤用説への疑問をブログで取り上げるようになったのは、以下の記事にも書いたように「平成15年度「国語に関する世論調査」のグラフを見て危機感を抱いたからでした。http://biff1902.way-nifty.com/biff/2010/04/post-afa7.html

この調査があった平成15年当時は、まだ全体としては「的を得る」54.3%「的を射る」38.8%で「的を得る」が優勢でしたが、16~19歳の最若年層では唐突に「的を得る」の支持率が急落し「的を得る」35.8%「的を射る」45.3%と逆転しています。確かに一般的に言葉の意味や形の変遷は若年層で進行するものですが、この急激な変化はどうみても不自然でした。これが私が危機感を抱いた理由です。

果たしてそれから9年後の「平成24年度「国語に関する世論調査」は、私が懸念したとおりの結果となっています。全体としては「的を得る」54.3%→40.9%「的を射る」38.8%→52.4% 最若年層では「的を得る」35.8%→18.9%「的を射る」45.3%→73%。 テレビの流行語でもない普通の表現の使用実態が僅か十年足らずでこのように異常な推移をした例はかなり希少ではないでしょうか。今改めて15年調査と24年調査のグラフを見比べても「10代はまだ考えが固まっている年代ではないため、成長するにともない数値が増えていくと見るのが普通」という貴方の考えに、私はまったく賛成できません。

「的を得る」を巡って非常に精確な用例調査をされているkumiyama氏も、ご自身のブログ記事でこの二つのグラフを比較し「「的を射る」が多用されるに至った要因は、人為的な働き (学校教育等が原因か) によるところが大きいと言えそう」と分析されています。
http://kumiyama-memo.hatenablog.com/entry/2014/07/13/223831

私はその「人為」とは、恐らく誤用説の流行による「的を得る」への迫害であり、もし『三国』の撤回がなく、あのまま誤用説の流行とそれに伴った「ことば狩り」の蔓延が続いていれば、ほぼ確実に「的を得る」という表現は絶滅しただろうと考えます。
--------------------------------------------
さて、貴方と「的を得る」誤用説を巡る一連の話題について共通理解を得るには、まず私の考え方の前提(土台)について相応の説明が必要だと感じました。つまり貴方との間で、あまりに前提となる知見に隔たりがあるため結論を説明しただけでは恐らく納得していただけないだろうと考えました。

そこで手始めに、 世間で広く通用していた「的を得るは的を射るの誤用」という説と、ネットなどで個人が独自に考えて発表している、いわばその人オリジナルの「誤用理論」とはまったくの別物だという説明をしておきます。

(世間に広く通用していた「誤用説」と、個人が独自に考えた「誤用理論」はまったく別物であること)

これは先の阿部氏にも貴方にも共通していえることなのですが、この二つを「的を得るは誤用」という結論が同じだからという理由で同列に扱うのは不適切です。

「誤用説」は、日本語の規範に基づいた説で、国語辞典にも採用され、専門家を含めて広く受け入れられ、日本語の共通理解に強い影響を及ぼした説でした。そのためこの説が妥当であるかどうかは重要な問題だと考えて私はブログ記事を書きました。

一方で、ネットなどで個人の方が思い思いに発表されているオリジナルの「誤用理論」は、多くが個人が考えた独自の根拠に基づくもので、現時点では一般に広く通用するレベルのものではなく、それゆえ日本語の共通理解にまったくといって良いほど影響力がありません。ですから私はこれらをブログの記事では取り上げません。コメント欄に私宛に開陳された場合に、事情の許す範囲で意見させてもらうにとどめます。

一般に広く通用していた「誤用説」は、内容を精査して整理すると以下のようになります。

(1)日本語には古来「的」は「射る」ものというコロケーション(語と語の結びつき)がある。
  (あるいは「的を射る」という一続きの慣用句がある)

これは疑う余地のない規範です。

(A)「的を得る」は「的を射る」を勘違いした表現だから(1)の規範に反した誤用である。
  (「当を得る」との混用等は「誤用」が発生した「原因」の推定で、「誤用」である「理由」つまり論の本体ではありません)

この(A)が、世間に広く通用していた誤用説です。そして、

(B)「的を得る」は「正鵠を得る」から派生した表現だから(1)を適用するのはおかしい。
(C)「的を得る」は「当を得る・要領を得る・時宜を得る」と同様の表現で(1)の適用外である。

などが誤用説を否定する立場ということになります。

専門家には、(1)を疑っている人は誰もいません。あるのは「的を得る」を(1)の規範に反すると考えるか、「的を得る」には(1)の規範を適用すべきでないと考えるかという立場の差だけです。

一昨昨年『三国』は(A)から(C)へ転じましたが、私が知る限り今でも誤用説を撤回していない専門家・辞書はいずれも(A)の立場です。
※ 実際の誤用説をみると「「的を射た」と「当を得た」の「的」と「当」とが交錯して、「的を得た」・・・・・・を生じ」などと書いてあることが少なくありません。私も当初これに幻惑されて誤用説の一部は表現の混交を問題にしたものだと思い込んでいましたが、その理路を丁寧に追うと実はこうした論も(一部の論旨不明のまま、ただ誤用だと言っているモノを除いて)すべて本体は「的を射る」が「規範」であることを前提にした(A)であることがわかります。

辞書や専門家の中には、少数ながら(1)の規範を「正鵠を得る」にまで適用すべきと、いささか首を傾げざるを得ないような主張をする例もありますが、そうした極端な例であっても(1)の規範に基づく説を唱えていることには違いがありません。

(参考:(1)を「正鵠を得る」にまで適用すべきとした例)
「正鵠を射る」の項:「誤って「正鵠を得る」ともいう」『日本語慣用句辞典』(2005)東京堂出版

「「正鵠を得た」は「的を得た」同様あり得ない表現」「現代言葉遣い小考」(1998)後藤秋正
 http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/2613/1/KJ00000204581.pdf


しかしこうした一般に広く通用していた「誤用説」を巡る議論とはまったく別に、ネット上では種々の個人オリジナル「誤用理論」が展開されています。それらの中には多々(1)の規範によらずに色々な材料や理屈を独自に組み立てたものが含まれています。

しかしこうした主張をする人たちが、もしネット上のどこかで自分のオリジナルの「誤用理論」を使って議論に「勝った」としても(残念ながら何連勝しても)、それによってその「理論」が(A)の誤用説の代わりに日本語の共通理解に影響を及ぼすことはありません。中には一人でも支持者を増やそうとtwitterなどで、独自理論であることを伏せて流布を図っている方もいらっしゃるようですが、これなどよく事情を知らずにオリジナル「誤用理論」を一般的な論だと勘違いさせられた人に大変迷惑な行為であるだけです。
(もちろん、広く一般に妥当だと容認され、専門家による検討に堪えるような理論が登場すれば、それが将来日本語の規範になる可能性はあると思いますが、私はまだ専門的な検証に堪えられそうなオリジナル「誤用理論」をみたことがありません)

そこで、貴方にいただいた以下の指摘です。

>>この話が載っているのは1998年の書籍なので、既に『三省堂国語辞典』の誤用説掲載も前提になっていますが、
>>「誤用説は知ってますよ。まぁ、そう信じるのは勝手だけれど、「的を得る」の元は「正鵠を得る」でしょう」とあっさり切り捨てています。
>これは「『的を得る』誤用説が、いかに『まともに相手にされていなかったか』という例」ではなく、
>「『的を得る』は『当を得る』との混交とする説がいかに『まともに相手にされていなかったか』という例」ですよね。
>林大氏は「『的を得る』が誤用かどうか」を言っているのではなく、「『的を得る』の元が『当を得る』なのかどうか」を言っているに過ぎません。
>これを誤用説が相手にされていたかどうかの例として出すには不的確だと思いますが?

上記説明したとおり「誤用説」は「的を得る」が(1)の規範に反しているから誤用とする説で、「当を得るとの混同」というのはその誤用が起きた原因を推定し説明したものです。これを踏まえれば、林大博士が「正鵠を得る」由来だろうと指摘している時点で、すでに(A)の誤用説を否定する(B)の立場であることがお分かりなると思います。
--------------------------------------------
(「ことばは恣意的に決まる」という常識について)

次に「ことば(の「音(文字)」と「意味」の結びつき)は、恣意的(つまり何の必然性もなし)に決まる」という常識についてお話しします。これは「ことば」に関心を持ち、少しでも勉強をした人であれば誰でも知っている非常に重要な常識です。

たとえば「イヌ」といえば日本語母語話者の10人のうち10人が「(ネコではなく)あのイヌ科の家畜」を思い浮かべると思います。しかし、あの動物が「イヌ」である論理的必然性はまったくありません。実は、たまたま日本語母語話者の間で「あの動物はイヌだ」という共通理解が成立しているから、日本語で「イヌはイヌ」であるにすぎないのです。

裏を返せば、多くの人の共通理解として「あの動物はイヌだ」とされていること以外に「イヌ」という言葉が「正しい」と保証してくれるものはありません。ですからもし何らかの事情で現在の「イヌ」を多くの人が「ネコ」だと思うようになって、それが日本語母語話者の間の共通理解になれば「あの動物(現在のイヌ)」は「ネコ」になってしまいます。そうなると古文の時間に先生が「この文の中に出てくるイヌというのは、現在のネコのことです」と説明しなくてはなりません。

そんなバカな!と思われるかも知れませんが、ことばの世界ではこれが実際に起こります。

「因幡の白兎」は、昔話としてよく知られていますからご存知だと思います。http://www.shirousagi-goen.com/294/1491.html

一般に知られているあの昔話の中では「ウサギがサメを騙し」て海に整列させますが、『古事記』の「因幡の白兎」にはウサギに騙された動物は「ワニ」だと書いてあるのです。そして現在でも、この『古事記』に登場する「ワニ」がどんな生き物であったかについて「サメ」「ワニ」「ウミヘビ」などの諸説が入り乱れて最終的な決着がついていません。

今の日本語で「ワニといえば、あの4本足の爬虫類」「サメといえば、あの軟骨魚類」に決まっていますが、同じ日本語であっても千年以上前に「ワニ」と書かれたものの正体を今となっては特定できないわけです。言い換えれば、ことばの共通理解とはそれほど脆いものなのです。

名詞ばかりでなく、動詞でも、形容詞でも、連語でも、慣用表現でも、そして文法も、ことばというものは、多くの人に容認され共通理解とされることによって成り立っています。

つまりことばの正しさ(規範)の本質は、理屈ではなく、そのことばの母語話者の間で容認され共通理解となっていることなのです。

ですから、たとえば「蒸発」ということばの意味は元来「物質が気化すること」ですが、「人が蒸発した」という使い方をしたら「人がいなくなる、または、家出して行方が分からなくなる」という別の意味になるという場合、これは恐らく最初は比喩として「人がいなくなる」ことを「蒸発」と表現した用例が登場し、それが広く受け入れられて「蒸発」ということばに新しい意味が付け加わったケースでしょうが、こうして共通理解によって新しく加わった意味に対して「「蒸発」とは物質が気化することだ、人が地上の常温で気化するのはおかしい、だからそれは誤用だ」と理屈をいっても意味が無いのです。

ことばの世界ではこの「ことばは恣意的に決まる」ということは常識なのですが、世間では意外にこれを知らずに「共通理解に反する理屈」を捏ねて「誤用」を証明した気になっている人が少なくありません。

そこで貴方の「的を得る」を誤用と考える根拠についてですが、

>私が得るは誤用だと思うのはそもそも「得る」とは「手に入れる、自分のものにする」という言葉であり、
>的は射抜いたところで自分のものになるわけではなく、手に入れられるのは射抜いた獲物や的の得点という
>結果であり、的そのものに当てるという表現には論理的に合わないと考えているからです。

>上にも書きましたが、「物事の核心を捉える」のはその射た結果であって、当てる行為そのものではありません。
>行動と結果を混同しているように感じます。
>例えば記者会見の場合、相手(的)に鋭い質問(矢)をし(当)て重要な部分(核心)を答えさせる(捉える)のであり、
>警察は事件で捜査し(矢を射)て証拠(核心)を得(捉え)るのです。
>「核心を突く」ことと「核心を捉える」ことは違います。

もしこうした「理屈」でことばが解釈できる(すべき)と主張されるのなら「顔が立つ」「鶏冠に来る」「人を食う」など、「立つ」「来る」「食う」の元来の意味で解釈できない数多ある慣用表現の正誤を、貴方はどう説明されるのでしょうか?果たして、これらの表現を「意味が通らない(から誤用)」と言うことに合理性はあるでしょうか?「的を得るは意味が通らないから誤用」というネットなどでときどき見かける言説の危うさは、その主張自体がすでに存在する日本語の共通理解とかけ離れた机上の「理屈」になってしまっているところにあるのです。

※ (A)の「的を得る」誤用説の説明でよく使われた「得てどうする」「得るでは意味がとおらない」は、誤用であることを説明するための方便として使われた後付けの理屈に過ぎず、決して誤用説の本体(誤用である「理由」)ではありません。飽くまでも誤用説の本体は「規範であるコロケーションの違反」とその説と矛盾しない「登場時期」という状況証拠です。

>言うなれば「当を得た」「正鵠を得る」の混用という決めつけではない誤用派ですね。

※ この部分の意味がよくわかりませんが、世間一般で主流になっていた(A)の誤用説を支持する立場ではない(つまり貴方独自の理論に基づいて「的を得る」は誤りと考えている)と言うことでしょうか。
--------------------------------------------
(外来語が元の言語と違う意味になるケースと「正鵠を得る」の正誤について)
すでに縷々説明したとおり、漢語に限らず外来語が日本に渡ったときに意味が変わることがあるのは言語に普遍的な現象でそれを「誤り」とはいえません。

たとえば「西洋かるた」の呼称の一つである「トランプ」が、もともと勘違いから日本語として定着したものだという有名な説があります。

英語の「trump」は元来「切り札」の意味ですが、カードでゲームをしている西洋人がしばしば「トランプ!」と言っているのを聞いた日本人が、それをカードの名前と誤解したという話です。もしこの説のとおりだったとしたら「トランプ」は誤解によって元来とはまったく違う意味で日本語になったわけですが、これを理由に「トランプ」は誤用だといえるでしょうか?その「トランプ」を含む「トランプ占い」「トランプ類税」という言葉はどうでしょうか?

もうお分かりかと思いますが、「西洋かるた」を「トランプ」と表現することの正しさを担保するのは語源や出典ではありません。ことばの正しさを担保するのは「西洋カルタはトランプともいう」という共通理解であり「外来語の場合は、元の言語の意味が正しい=元の言語と違う意味で使うのは誤り」という規範は少なくとも日本語には存在しません。

そこで、貴方からいただいた以下の指摘ですが、

>>繰り返しますが、中国語の表現に「ある」「ない」は、日本語の表現の正否の判断基準にはなり得ません。
>大本が中国の慣用句を元にしたものと日本語として生まれた言葉を混同しているように感じますが?
>元々が中国の言葉ならば、中国の言葉の意味が本来は正しいのであって、それが日本でどのように使われようと、
>「間違っている」と言われることを制限するものではないでしょう。

もちろん誰かが何かを「間違っている」と思うのは自由で、私がそれを制限することはできませんししません。しかし「外来語の場合は、元の言語の意味が正しい=元の言語と違う意味で使うのは誤り」という考え方を私は支持しませんし、またそれが一般に広く通用することもないと思います。

日本語の語彙に占める漢語の割合は莫大ですが、一説によればそのうち2%程度が日中で意味が異なるそうです。中国から渡った際に意味が変わったもの、日本で使われているうちに意味が変化したもの、日本で作られた和製漢語がたまたま中国語の単語と同じ形だったものと出自は様々ですが、これらはどれも誤用などではないのです。

※ 「咲」については、大変興味深い情報をいただきありがとうございました。ただ解釈には疑問がありますので、それについて後述させていただきます。

続いて「正鵠を得る」の正誤に関するご指摘についてです。

>「正鵠を得る」が仮に誤りだとしても現在の日本では正用だから、「的を得る」も正用だと言うことでしょうか?
>正用か誤用かの論理的な根拠の論戦に於いて、前提自体が間違っていたら説得力を持たないと思いますが。
>間違っていたものを基にしたものが正しいというのは論理的におかしいでしょうし、
>間違っていたものが制度的に正しいとされたからと言って、そこから派生したものが論理的に正しいというのは無理があります。
>「本当は誤りだけど、慣例的使われるから正しいとしよう」となったものから派生したものはやはり「本当は誤り」であり、
>それを「正しいことにしよう」と言うのであれば、理由は慣例という制度的なものであるはずですが、貴方は慣例的な理由を否定しています。

上述のとおり「外来語の場合は、元の言語の意味が正しい」という規範は日本語には存在しないので、「正鵠」が日本で中国語の元の形や意味とは違う使われ方をしたとしても誤りとはいえません。したがって私の前提が間違っている(「「正鵠を得る」が仮に誤りだとして」 )という貴方の仮定は成り立ちません。仮定が崩れていますから、その後の「間違いから派生したものが正しいというのは論理的におかしい」という展開も成り立ちません。

そして、もちろん「正鵠を得る」が日本語では押しも押されもしない「正用」であることも間違いありません。

【資料】「正鵠を得る」「正鵠を射る」「的を射る」の年代順用例一覧
http://biff1902.way-nifty.com/biff/2010/05/post-fc48.html

kumiyama氏のブログ記事
第2章 使用実態調査  2‐1 「神戸大学附属図書館 新聞記事文庫」を使って
http://kumiyama-memo.hatenablog.com/entry/2014/01/04/223831

「正鵠を得る」が登場した時期と実際に使用されていた実態をみれば「物事の核心をとらえる」という同義の4つの慣用表現「正鵠を得る・正鵠を射る・的を射る・的を得る」の中で「正鵠を得る」がまったく群を抜いた存在だったことは疑う余地がないのです。

ですから私のこの記事は「的を得る」の「正誤」を問題にしてはいませんが、敢えて私の考えを述べれば以下のとおりになります。

1.中国語と意味が違うから「正鵠を得る」は間違いだという主張は成り立たない。
2.日本語の「正鵠を得る」は正用である。
3.「正鵠を得る」から派生した「的を得る」も正用だといえる。
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(ことばの「規範」と「誤用」、そして「規範」の揺れと共有範囲の限界)

ざっくりと整理すると、ことばの規範は以下の2つになります。「ことばは恣意的に決まる」を踏まえると、ことばの「規範」とは何かが理解しやすくなります。

1.そのことばの母語話者の間で「正しい」とされる共通理解。
2.国家の言語政策による規程。

共通理解がことばの土台であることはすでに説明しました。国家の言語政策については今は深入りしませんが、これは非常に強烈です。国は、法規や教育課程の変更によって強制的にそれまでの共通理解を断ち切って、主に学校教育を通してかなり短期間に新しい共通理解を形成します。維新政府に採用された旧仮名遣いは、戦後、現代仮名遣いに強制的に変更されました。共通理解が断絶したために戦前の規範に従って書かれた旧仮名遣いの文を現代人は非常に読みにくいと思います。常用漢字(古くは当用漢字)の制定によって、文字の本来の意味としては明らかにおかしい書き換えがされましたが、それが現在では規範になっています。

そしてことばの「間違い」「誤用」とは、平たくいえば上記2つの規範に反した意味や用法でことばを使うことです。
(この一般論には、ことばが新しい意味を獲得する、新しい表現が生まれる等の際に、例外やグレーゾーンが必然的に存在します)

たとえば水族館にいる「あの軟骨魚類」が「サメ」であることは別に法律で決まっていなくても日本語母語話者の間で共通理解がありますから、これは一つの規範です。それに反してあの軟骨魚類を「ワニ」といえば明かな間違いということになります。また小学校の漢字の書き取りで「旧」を「舊」と書くと、いくら歴史的な背景があるといっても、常用漢字のルールに違反しているために誤りということになってしまいます。

しかしこの「規範」特に共通理解によるものは流動的です。その主な理由は日本語母語話者の総体が、誕生・成長・死亡他の要因で入れ替わっていくからです。普通はこの規範の変化は5年や10年の期間ではさほど実感できません。しかし30年、50年という期間で見ると明らかに変化しています。今年は夏目漱石の没後100年にあたるそうですが、漱石の文章を読むと現在とまったく違う意味で使われていることばや言い回しが山ほど出てきます。ですから現在の日本語母語話者の中でも70代と20代では、かなり規範の認識に違いがあるはずだということになります。つまり共通理解による「規範」はその性格上、時とともに揺れるのです。

ところで普通の大人の日本語母語話者は1.5万から3万語程度の語彙を持つといわれています。いわゆる教養の高い人の場合、これが3万から5万語になるそうです。そして小型の国語辞典(『三省堂国語辞典』や『新明解国語辞典』など)の収録語数は8万語前後、中型の国語辞典(『広辞苑』『大辞林』など)は20万語以上、大型の『日本国語大辞典』になると50万語が収録されています。

何を言いたいかというと、私は「規範」は共通理解であり時とともに揺れると説明しましたが、時間の経過以外の制約条件として共有の範囲という問題があるということです。普通の日本語母語話者は、小型の国語辞典でさえ採録されたことばの半分以上を知りません。まして『日国』50万語を考えると、我々は日本語の語彙のほんの一部を共有しているに過ぎないということになります。

また普通の人の語彙が1.5万語から3万語に過ぎないということは、たとえば小型の国語辞典に載っている8万語に限った場合でも、誰もがほぼ同じ意味に理解していることばと、知っている人と知らない人が相半ばすることば、ほとんどの人が知らないことば等が存在することを意味します。当然、誰もが正確に知っているわけではないことばになると共通理解が揺れ始めます。今回は深く立ち入りませんが、国語辞典に規範としての機能が期待される理由の一つがここにあります。

さて、容認や共通認識とことばの「正しさ」の関係を踏まえて、以下の貴方の主張を検討します。

>>「得正鵠」が日本から伝わった表現だとすれば、中国でもその表現が容認された証拠でしょう。
>>・「正鵠を得る」を「諸悪の根源」と主張するのは自由ですが、賛同する人は少ないでしょう。
>よく言われる話ですが、容認することや賛同する人が多いかどうかと、それが正しいかどうかは全く関係ありません。
>多かろうが少なかろうが正しいなら正しい。誤りなら誤りです。

自然科学の世界であれば、一人を除いて世界中のあらゆる人が「大地は世界の中心であり止まっている」と考えてても「地球は回っている」と信じているたった一人が「正しい」ということがあり得ます。ことばの世界であっても、ことばの性質・意味や歴史に関する事実の研究であればそういうことが起き得るでしょう。ですから動かしがたい事実がある場合には「賛同する人が多いかどうかと、それが正しいかどうかは全く関係ありません」という論理は正しいといえます。

しかし「~が良い」「~は悪い」「~は諸悪の根源」などという価値判断には、真偽が証明できる事実関係の検証と違って結論を客観的に裏付ける証拠が提示できないので、その論理は適用できません。ましてその考えが広く一般に通用するかどうかこそが決定的な要素である「ことば」の用法の妥当性を考えるときに、この論理を採用するのは相応しくありません。

人々の認識が変化して「イヌがネコになってしまった世界」で、「過去、今のネコはイヌと呼ばれていた」という歴史的事実を皆が忘れてしまっていたとして、それを再発見し主張したのがたった一人であったとしてもその主張は正しいといえます。しかし同時に、皆が「ネコ」だと理解している動物をそれは元来「イヌ」だったから「ネコ」は誤用だと主張してもそれを正しいとはいえません。事実の「真偽」を検証するのに有効な論理であっても、得てして人の価値観に左右される「正誤」や、揺らぎの多い集団の「認識」の検証に無自覚に使用すると妥当な結論が得られないことが多いのです。
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(その他)
>あと、 阿部高和氏の
>これらに返答が出来ていないように思えます。
>以上の事柄についてどのようにお考えでしょうか。

というご指摘について、

>>>「中国語にない表現だから日本語として間違い」という主張が根本的に成り立たないことは議論の余地がありません。
>>洒落が成立しないから。語源と今の使われ方は違うから。最初から正しい言葉と間違いだが正しくなった言葉は違うから

>>>これは言語に普遍的な現象であって、決して「間違い」などではありません。
>>日本人が意味を理解せずに推測で勝手に意味を決めただけの漢語たちって一体…。
>>ワイシャツにされちゃったホワイトシャツとかなんなの
>>漢語で構成された漢文を、日本人が日本語でもないのに漢語に勝手に決めた間違った意味で読むのが「間違いではない」って、
>>それ文化じゃなくてただの勘違いだから

上記2つは、(外来語が元の言語と違う意味になるケースと「正鵠を得る」の正誤について)の説明をご参照ください。

>>>「失せず」と読んでも構いませんが、「正鵠を失わず」は、漢文では通常の訓読です。誤訳でも何でもありません。
>>失わずだと意味が通らない

これは漢文の習慣としか説明のしようがないので、明治書院「新釈漢文大系」『礼記(下)』の926頁をご参照ください。「不失正鵠・・・」は「正鵠を失わざる・・・」と訓読され「的の真ん中を外さない・・・」と通釈が付いています。これが一般的に通用する(意味が通じる)漢文の慣例です。
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(「咲」に「さく」の訓があてられた件について)

最後になりますが、この件に関して大変興味深い情報をいただきありがとうございました。

>「花が咲く」は元々中国の「鳥鳴花咲=鳥なき花わらう」という慣用句から、日本で「さく」意に転用されたものだそうです。
>当然、この「花わらう」は「花がさく」ことを意味していますので、日本で独自に付加された意味ではないようです。
>なので「花が咲く」は表現として間違いではないと言うことになりませんか?

「鳥鳴花咲」は知りませんでした。渡来後、平安時代にはまだ「わらふ」とされていた「咲」にどんなきっかけで「さく」の訓が当てられたのか疑問に思っていたので大変参考になりました。「鳥鳴花咲」がきっかけになったというのは、非常にありそうな話だと思います。(「鳥鳴花咲」は恐らく中国で春の訪れの一般的な表現「花開鳥啼=花開き鳥啼く」を踏まえた比喩ではないでしょうか)

ただこの「花咲」は飽くまでも比喩なので、内容はむろん花が「ひらく(さく)」ことを指していますが、実際に使われている表現は花が「わらう」です。

ですから「鳥鳴花咲」という中国の比喩にヒントを得たとしても、「咲」に「さく」の訓を当てたのが日本独自であったという事実関係には変わりないと思います。

2016.3.23  一部加筆、字句修正しました。

投稿: BIFF | 2016年3月22日 (火) 12時42分

ご返答及び丁寧な説明、ありがとうございました。

ただ、貴方の論を見て残念ながら、どうしても違和感を覚えざるを得ませんでした。

>テレビの流行語でもない普通の表現の使用実態が僅か十年足らずで
>このように異常な推移をした例はかなり希少ではないでしょうか。
>今改めて15年調査と24年調査のグラフを見比べても「10代はまだ考えが固まっている年代ではないため、
>成長するにともない数値が増えていくと見るのが普通」という貴方の考えに、
>私はまったく賛成できません。

なるほど、貴方が危機感を覚えたのは理解しました。
とは言うものの、やはり約41%あるものを「絶滅に瀕している」というのは無理があります。
社会の構成においても人口の構成においても主要な部分を占めているのは10代ではなく30代以降であり、その使用率は30%以上あります。
当然、社会に影響を与えるのはこの世代ですから、世間一般的には「『的を得る』を使う人は一定数いる」と認識されていたとするのが普通です。
また、同じ理由で若年層の数字が増えることも十分説明が付きます。
少なくとも2013年の時点で絶滅に瀕していたから辞書編纂に影響を与えていないと言う論の根拠には不十分だと思います。

>「誤用説」は、日本語の規範に基づいた説で、国語辞典にも採用され、専門家を含めて広く受け入れられ、
>日本語の共通理解に強い影響を及ぼした説でした。
>そのためこの説が妥当であるかどうかは重要な問題だと考えて私はブログ記事を書きました。

>一方で、ネットなどで個人の方が思い思いに発表されているオリジナルの「誤用理論」は、
>多くが個人が考えた独自の根拠に基づくもので、現時点では一般に広く通用するレベルのものではなく、
>それゆえ日本語の共通理解にまったくといって良いほど影響力がありません。

>しかしこうした主張をする人たちが、もしネット上のどこかで自分のオリジナルの「誤用理論」を使って
>議論に「勝った」としても(残念ながら何連勝しても)、それによってその「理論」が
>(A)の誤用説の代わりに日本語の共通理解に影響を及ぼすことはありません。

広く一般に通用するレベルのものかどうかはその人の説の内容に因るでしょうし、
世間に広く認識するまで「連勝」すればいい話しではないでしょうか。
昨今では特にツイッター・ブログなどSNSに書かれたものに対して世間が大きく反応して専門家まで巻き込むことが珍しくありません。
また、専門家としては慣例的に使われてきたため、日本語として正用としようとすることもあろうかと思いますが、
個人の論はその正否はともかくおよそ論理的なものが大半ではないでしょうか。
貴方が慣例的なものを否定している以上、論理的に考えていくべきで、個人のその論理を頭ごなしに無視するのはおかしなことと感じます。
また、貴方の論理からすれば、貴方のその「日本の共通理解に影響を及ぼすこともない」と言う弁自体、
貴方のオリジナルの論理でしかなく、影響を及ぼすことはないと言うことになってしまいます。

>(A)「的を得る」は「的を射る」を勘違いした表現だから(1)の規範に反した誤用である。
>(「当を得る」との混用等は「誤用」が発生した「原因」の推定で、「誤用」である「理由」つまり論の本体ではありません)

>上記説明したとおり「誤用説」は「的を得る」が(1)の規範に反しているから誤用とする説で、
>「当を得るとの混同」というのはその誤用が起きた原因を推定し説明したものです。
>これを踏まえれば、林大博士が「正鵠を得る」由来だろうと指摘している時点で、
>すでに(A)の誤用説を否定する(B)の立場であることがお分かりなると思います。

おかしな話と感じます。
そもそも貴方は1970年代に誤用説が広まってもいなければ、いかに「まともに相手にもされていなかったか」のその例として林大氏の話を持ってきたはずでは?
また、貴方はこう書いています。

>林大博士にすれば、(略)自分からわざわざ誤用説に反論するまでもないとお考えだったでしょう。

林大氏が既に(A)の誤用説を否定する(B)の立場だというのなら、林大氏は誤用説に自ら相手していたことになります。
また、「当を得る」との混用等は論の本体ではないのなら、なおさら貴方の書いている例は「『的を得る』が誤用かどうか」ということを顕しているとは思えません。
そもそも、例は「『的を得る』の元が『当を得る』なのか『正鵠を得る』なのか」を言っているに過ぎず、
林大氏が「的を得る」を誤用とする立場なのかどうかさえ書かれていません。
貴方の思い込みによって誤って出してしまったと感じざるを得ません。

>次に「ことば(の「音(文字)」と「意味」の結びつき)は、
>恣意的(つまり何の必然性もなし)に決まる」という常識についてお話しします。

そういう言葉があるのは事実ですが、全てそれに当て嵌まるわけではありません。
語源があるものは言葉の音と意味の結びつきに必然性があると言えます。

>しかし、あの動物が「イヌ」である論理的必然性はまったくありません。

「『イヌ』である論理的必然性」とは何でしょうか?
イヌ科の動物を「イヌ」というのは生物学的、歴史学的・言語学的にイヌという根拠があるからイヌなのでしょう。
貴方の言う論理的必然性というのがよく分かりません。

>裏を返せば、多くの人の共通理解として「あの動物はイヌだ」とされていること以外に
>「イヌ」という言葉が「正しい」と保証してくれるものはありません。
>ですからもし何らかの事情で現在の「イヌ」を多くの人が「ネコ」だと思うようになって、
>それが日本語母語話者の間の共通理解になれば「あの動物(現在のイヌ)」は「ネコ」になってしまいます。

多くの人が共通理解としてイヌだとしており、何らかの事情でネコになってしまうことがあるという話は社会性のものです。
社会的普遍性の問題と論理的問題は本来別の話のはずです。
先のコメントに書いたようにやはり、社会性普遍性と論理性を混同しているように感じます。

>そうなると古文の時間に先生が「この文の中に出てくるイヌというのは、現在のネコのことです」と説明しなくてはなりません。

それで良いですよ。私はそれを何ら問題にしていません。
また、そもそも仮に今のネコを「イヌ」という未来があったとして、その時代の「イヌ」という言葉と今の「イヌ」と言う言葉が同じ言葉であるとも限りません。

>今の日本語で「ワニといえば、あの4本足の爬虫類」「サメといえば、あの軟骨魚類」に決まっていますが、(略)
>言い換えれば、ことばの共通理解とはそれほど脆いものなのです。

方言で鮫のことをワニということをご存じないのでしょうか。
その地方では鮫を指すのにワニで通じます。
それは共通理解が脆いと言うことではなく、その社会によって変わってくると言うものです。

>つまりことばの正しさ(規範)の本質は、理屈ではなく、そのことばの母語話者の間で容認され共通理解となっていることなのです。

貴方の言っていることは言葉の社会普遍性の側面を述べているに過ぎず、言語の論理性とは違う話です。
貴方がこのブログで言いたいのは「『的を得る』は誤用である」に対する社会普遍性でしょうか、それとも論理性でしょうか?
やはり社会普遍性と論理性を混同しているように感じます。

>こうして共通理解によって新しく加わった意味に対して「「蒸発」とは物質が気化することだ、
>人が地上の常温で気化するのはおかしい、だからそれは誤用だ」と理屈をいっても意味が無いのです。

意味はあります。
行方不明になる意の「人が蒸発する」は日本語それ自体としてはあくまで誤用です。
ただし、比喩という特殊用法において使うことで社会的に受け入れられていると言うに過ぎません。
そもそも比喩という特殊用法を言語学の論理的正誤に持ち出すのはナンセンスでしかありません。
ここでもやはり社会普遍性と論理性を混同しているように感じます。

>もしこうした「理屈」でことばが解釈できる(すべき)と主張されるのなら
>「顔が立つ」「鶏冠に来る」「人を食う」など、「立つ」「来る」「食う」の元来の意味で解釈できない
>数多ある慣用表現の正誤を、貴方はどう説明されるのでしょうか?
>果たして、これらの表現を「意味が通らない(から誤用)」と言うことに合理性はあるでしょうか?

先ず、そもそも私の文章、特に後半部は貴方の

>・しかし「物事の核心をとらえる」という意味の慣用表現「的を得る」とは無関係の話です。
>例えば、今回「的を得る」を採録した『三省堂国語辞典 第7版』では「得る」を
>「うまく捉える」の意と解釈しています。
>「的を得る」が「物事の核心をとらえる」意味として使われるとき、「的」は「弓の的」ではなく
>「物事の核心」という意味ですし、これに呼応する「得る」が「当たる」という意味である必要はありません。

これに反論したものです。
即ち、「こうした『理屈』でことばが解釈できる(すべき)と主張」されているのは貴方であり、
それを否定するのであれば、貴方の上記の弁も否定されると言うことになります。
因みに、
「顔が立つ」の顔は面目、立つは立場から来ているそうなので、「面目(人の有様)の立場が保たれる」ということになり、元来の意味で解釈できます。
「鶏冠に来る」の来るは血が頭に上る(来る)から来ているそうなので、「頭のてっぺんに血が来る(ほど怒る)」ということになり、元来の意味で解釈できます。
「人を食う」の食うは勢いを飲んでしまう(この飲むは「波が飲み込む」といった覆ってしまう・圧倒すると言った意味でしょう)、食うはもともと狗うでバカにすると言う意味があるという説があり、「人を圧倒する・バカにする」ということになり、元来の意味で解釈できます。
各々の説の正誤の問題はあれど、仮にこれらの説が正しいとすれば「理屈」で言葉が解釈できますし、
また、言葉の論理的正誤と社会的正誤を混同するべきではないことは何度も書いた通りです。

>「的を得るは意味が通らないから誤用」というネットなどでときどき見かける言説の危うさは、
>その主張自体がすでに存在する日本語の共通理解とかけ離れた机上の「理屈」になってしまっているところにあるのです。

それは貴方が言語の論理性と社会普遍性を混同しているからそう感じるだけだと思います。

>※ (A)の「的を得る」誤用説の説明でよく使われた「得てどうする」「得るでは意味がとおらない」は、
>誤用であることを説明するための方便として使われた後付けの理屈に過ぎず、
>決して誤用説の本体(誤用である「理由」)ではありません。飽くまでも誤用説の本体は
>「規範であるコロケーションの違反」とその説と矛盾しない「登場時期」という状況証拠です。

「的を射るというコロケーションは何故規範なのか」ということを考えれば、「得る(=射る以外)では意味がとおらない」からでしょう。
元々のコロケーションが正用であり規範であるというには根拠があり、その根拠を以て「規範であるコロケーションの違反」を説明することは何らおかしなことではありません。
貴方が「得るでは意味が通らない」自体は正論のため、反論できないから「方便として使われた後付けの理屈に過ぎない」と片づけているように感じてしまいます。

>もしこの説のとおりだったとしたら「トランプ」は誤解によって元来とはまったく違う意味で
>日本語になったわけですが、これを理由に「トランプ」は誤用だといえるでしょうか?

言えます。
これもまた貴方の言語の論理性と社会普遍性を混同した話であり、
その社会でそれが正用だとしても元々の意味からそれを誤用だと指摘することは何ら問題ないですし、
仮にそれで社会が「トランプを切り札の意味で使おう」となれば「昔はトランプという言葉を誤って使っていた」となります。
社会的にそれが正しいかどうかと、言語学(論理)的にそれが正しいかとは全く別の話です。

>ことばの正しさを担保するのは「西洋カルタはトランプともいう」という共通理解であり
>「外来語の場合は、元の言語の意味が正しい=元の言語と違う意味で使うのは誤り」
>という規範は少なくとも日本語には存在しません。

何度も言っているようにその「正しさ」は社会が認めているかどうかと言うだけの話であって、論理的な正しさを含んでいません。
もしそれを否定するというのなら、貴方は言葉の成り立ちというものを否定するということになるのではないでしょうか。

>もちろん誰かが何かを「間違っている」と思うのは自由で、
>私がそれを制限することはできませんししません。

ならば何故「誤用説は何ら根拠のない妄言である」かのような書き方をしているのでしょう。
貴方の行っていることは誤用説自体の否定であり、それは即ち「間違っている」と言われることを制限しようとしていることです。

>(略)という考え方を私は支持しませんし、またそれが一般に広く通用することもないと思います。

貴方が支持するかどうかと誤用説が誤りかどうかは関係ありませんし、一般に広く通用するかどうかは時節に因りますから、
貴方がそれを否定できるものでもありません。

>上述のとおり「外来語の場合は、元の言語の意味が正しい」という規範は日本語には存在しないので、
>「正鵠」が日本で中国語の元の形や意味とは違う使われ方をしたとしても誤りとはいえません。

その「規範は日本語には存在しない」という論自体が言語の論理性と社会性とを混同したものであり、前提自体が誤ったものであると思えます。
私の文章には何度も「論理的に」と言う言葉を使っており、「それを正しいとするなら慣例的なもののはずだ」と書いています。
貴方は論理的な側面に於いて私の文に回答できていません。

そもそも、貴方の言っていることは「言葉の誤用」全てに対する否定であると感じます。
「的を~」に限らず貴方は言葉に誤用はないという立場なのでしょうか。

>したがって私の前提が間違っている(「「正鵠を得る」が仮に誤りだとして」 )という貴方の仮定は成り立ちません。
>仮定が崩れていますから、その後の「間違いから派生したものが正しいというのは論理的におかしい」
>という展開も成り立ちません。

「貴方が前提が間違っているかどうか」は「間違いから派生したものが正しいというのは論理的にどうか」
の根拠的仮定ではありません。
貴方の前提が正しかろうが誤っていようが、間違いから派生したものが正しいというのは論理的におかしいですし、
仮に誤っていればその「間違い」に当て嵌まると言うことです。
なので、「仮定が崩れていますから~という展開も成り立ちません」という論こそ成り立ちません。

>そして、もちろん「正鵠を得る」が日本語では押しも押されもしない「正用」であることも間違いありません。

“現在の”日本ではね。

>ざっくりと整理すると、ことばの規範は以下の2つになります。
>1.そのことばの母語話者の間で「正しい」とされる共通理解。
>2.国家の言語政策による規程。

言葉の論理性、引いては言葉の成り立ちを無視していると感じます。
言葉には何故そういうのかという論理性があります。それを無視したところで片手落ちの論理だとしか思えません。

>ことばの世界であっても、ことばの性質・意味や歴史に関する事実の研究であればそういうことが起き得るでしょう。
>ですから動かしがたい事実がある場合には「賛同する人が多いかどうかと、
>それが正しいかどうかは全く関係ありません」という論理は正しいといえます。

「的を得る」が誤用かどうかと言う話は「ことばの性質・意味や歴史を研究して出す話」ではないのですか?
その上で「漢籍に得正鵠の用例はなく、中正鵠の用例がある。」という動かしがたい事実があるのではないのですか?
ならば「賛同する人が多いかどうかとそれが正しいかどうかは全く関係ない」という論理は正しいとなりますよね。

>しかし「~が良い」「~は悪い」「~は諸悪の根源」などという価値判断には、
>真偽が証明できる事実関係の検証と違って結論を客観的に裏付ける証拠が提示できないので、
>その論理は適用できません。

そもそも私は「~が良い」「~は悪い」という話をしていないはずですが。
どこからその「価値判断」が出てきたのでしょうか。
貴方も規範として正しいかどうかという話はしても良い悪いという話はしていなかったように思えるのですが。

>しかし同時に、皆が「ネコ」だと理解している動物をそれは元来「イヌ」だったから
>「ネコ」は誤用だと主張してもそれを正しいとはいえません。

言えます。
誤りを誤りであると主張すること自体は正しい行為です。
ただしそれを社会が受け入れるかどうかは別問題です。
社会がその時点で受け入れないからといって正しくないとするのは、社会性と論理性を混同しているからにすぎません。
そして、貴方も言うように社会は流動的ですから、それによって社会が変わればその主張は社会的にも正しいとなります。

>事実の「真偽」を検証するのに有効な論理であっても、得てして人の価値観に左右される「正誤」や、
>揺らぎの多い集団の「認識」の検証に無自覚に使用すると妥当な結論が得られないことが多いのです。

人の価値観に左右されるのは「正誤」ではなく「正悪」であり、確かに社会によって「正誤」が決まる場合があるが、それだけで決まるわけではありません。
また、「無自覚に使用する」という意味が分かりません。
何を私が無自覚に使用しているというのでしょうか。

>これは漢文の習慣としか説明のしようがないので、~これが一般的に通用する(意味が通じる)漢文の慣例です。

「漢文の習慣」とは日本の漢文解読社会に於いてと言うことですよね。
阿部高和氏は日本の漢文の解読方法(漢文の習慣)自体が誤りであると指摘しているので、
その回答にはなっていないように思えますし、
日本の社会で正だからといって本来の漢文の意味も正とはならないでしょう。

>ただこの「花咲」は飽くまでも比喩なので、内容はむろん花が「ひらく(さく)」ことを指していますが、
>実際に使われている表現は花が「わらう」です。
>ですから「鳥鳴花咲」という中国の比喩にヒントを得たとしても、「咲」に「さく」の訓を当てたのが
>日本独自であったという事実関係には変わりないと思います。

比喩だろうが何だろうが、実際に中国にそのような表現があったのならば元々中国にも咲=開く(咲く)という意味があったのでしょうし、日本独自と言うには無理があるとしか思えません。
また、貴方は比喩である「人が蒸発する」を持ち出して共通理解の話をしています。
「あくまで比喩だから」を理由とするならば、上記の「人が蒸発する」も誤った例ということになります。


一通り反論を書きましたが、そもそもの違和感として、
貴方は「ことばの正しさ(規範)の本質は、理屈ではなく、そのことばの母語話者の間で容認され共通理解となっていること」と書いています。
つまり、簡潔に言うと、言葉の正誤はその社会の共通理解・認識によって決まるということでしょう。

ならば、何故貴方は“「『的を得る』が誤用である」を正とする共通理解・認識”に異議を唱えているのでしょう。

貴方が言うように「的を得る」が絶滅寸前であったならば、それは最早「『的を得る』が誤りである」ことがその時点での共通理解・認識であったと言えるはずです。
でも貴方はその認識に異を唱えた。
「正鵠を得る」に対しては社会の共通理解・認識を持ち出して誤りではないとするのに、
同じ共通理解・認識である「的を得るは誤用である」を誤りとする。
私には都合の良い部分だけを持ってくるダブルスタンダードのように感じざるを得ません。

投稿: 置きみやげ | 2016年3月26日 (土) 04時12分

置きみやげ さん

反論するのはかまいませんが、私の説明を理解しないまま反論されても対応できません。

首を右に傾げたり左に傾げたりして読ませていただいた結果、肩こりが楽になったことには感謝していますが、これ以上は同じことを繰り返したり、前回以上に更にかみ砕いた説明をする義務が私にあるとは思いません。

貴方に理解する能力が無いとは思わないので、貴方には一般的な(貴方の特殊な用語では「社会性」「社会的普遍性」についての)議論は理解する気が無く、ことばの常識にも関係なく、ただ自説(貴方独特の用語では「論理的」な説)を主張することだけが目的なのだと承知しました。

こうした議論はとても私の手には負えないので、今後は私からの返信は遠慮させていただきます。

投稿: BIFF | 2016年3月27日 (日) 09時43分

はじめまして。「的を得る」に少し興味があって調べていたんですが、変なのに絡まれて大変ですね。
ちょっと読みましたが、恣意的に「決まる」って言ってるのに決まった後の「使う」の段階の話をするわ、途中から「論理的必然性」がいつの間にか単なる「論理的」になってるわ(違いが理解できないのか?)、挙句の果てに荒らし理論を堂々と正当化するわ。

まあ、自ら荒らしであることを宣言しているに等しい訳ですから、相手をしないことをお勧めいたします。
このままでは、まともな話がし難いかと思います。
このページを荒らすのが彼の目的ですから、思う壺ですよ。

投稿: | 2016年4月 4日 (月) 19時18分

2016年4月 4日 (月) 19時18分にコメントをくださった方へ

ご忠告、痛み入ります。

果たして件の方が荒らすことが目的だったのかどうか私には判断できていないのですが、対応の結果はご覧のとおりの仕儀で反省しております。

2016.4.5追記
確かにご指摘のとおり、3月28日以降のやり取りは一般に資する情報を含んでいないので非表示にいたしました。

2016.4.5
置きみやげさん

一般的な規範ではなく、貴方個人の信念に基づく理論について当記事コメント欄で扱うのは「2016年3月27日 (日) 09時43分」の回答の時点で限界であったと判断しました。

その後もコメントをいただいていますが、非表示対応させていただきます。悪しからずご了承ください。貴方は納得されていないようで残念ですが、3月22日の回答で私の説明できる内容はすべてだと考えています。

投稿: BIFF | 2016年4月 4日 (月) 20時54分

初めまして。
私も「的を得る」は間違い、とずっと思っていた者です。
そもそも「的を得る」という言葉など存在しないと思っていました。
色々な方の意見、本当に参考になりました。
私は頭は柔らかい方ですので、「的を得る」は誤用ではない、と理解しました。
逆に「的を射る」が絶対的に正しいと思っていた事が恥ずかしくなりました。
とても為になったので町田健先生にここを紹介したいくらいです。
非表示になっている文章も気になります(笑)

投稿: やまだ | 2016年4月23日 (土) 13時21分

「的を得る」が正しいというのは、なんらかの原典が存在したということですよね?
こちらのブログを読む限り、そういった出典はないようですが……
ちなみに「俗説」であろうとも、言葉が変化するものである以上、多くの人が「まちがい」と思えば、「まちがい」が「正しい」ことになるのが言葉です
「誤用」が時代をへて正しい用法になってしまうのと同じことですね
なにをムキになっているのか知りませんが

投稿: | 2016年6月23日 (木) 21時56分

2016年6月23日 (木) 21時56分にコメントをくださった方へ

「的を得る」が正しい表現と現段階で誰も断言できません。ただはっきりしているのは、この記事でご紹介したとおり、この十数年「的を得るは誤用だ」と断定してきたのは不合理だったということです。つまり現状は「的を得るが正しいと断定できない」のと同様に「的を得るは的を射るの誤用だと断定することもできない」のです。

こうした事情が判明したため、今後「俗説の定説扱い」が覆る可能性は高いと思われます。実際に、いくつかの国語辞書で誤用の記述の見直しが始まっています。

・『大辞泉』は2012年出版の第2版から「[補説]として「当を得る」との混同で、「的を得る」とするのは誤り。」と誤用説を採用しましたが、2016年4月時点の『デジタル大辞泉』ではこの記述が削除されています。

・2015年12月出版の『新レインボー小学国語辞典』学研では、「的を得る」について旧版の「あやまり」という記述が「本来の言い方ではない」に修正されました。

・やはり12015年12月出版の『例解新国語辞典』第9版 三省堂でも、旧版の「「当を得る」とまぎれて、誤って「的を得る」と言われることもある。」の記述が「「的を得る」と言われることもある。」に変更されています。

また、コメントに書いたとおり6年前に大阪の教員採用試験では、「的を得るを誤用」とした問題が撤回されています。卑近なところではテレビで「的を得るは誤用」と解説していた塾講師の林修さんも今年になって番組で意見を修正されたそうです。(https://twitter.com/annexxenna/status/705148029066727424  https://twitter.com/IIMA_Hiroaki/status/705208822093053952)

このように、すでに世間では「間違いとはいえない」という意見が一定の認知を得ているわけです。

おっしゃるとおり、多くの人が「まちがい」と信じたために「的を得る」は「ことば狩り」のような迫害を受けて使用者や使用頻度が大幅に低下しました。しかしなぜ多くの人が「まちがい」と信じたかは、権威のある国語辞典で「誤用」とされていたことが重要な背景なのです。今はそれが覆りつつあるわけです。


「的を得る」関連の慣用表現の登場時期や意味の変遷について補足記事を書いてありますので、宜しければ参考にご覧ください。

http://biff1902.way-nifty.com/biff/2014/11/post-631a.html

投稿: BIFF | 2016年6月23日 (木) 22時38分

正直言葉の端々はどちらでも良いと思っていますが、
的を射る・得るの意味は要点を掴むということらしいですね。
仮に狩猟だとして、獲物を得たということは目的が達成されてしまいますので、
議論では結論が出ると同等と感じられますね。
個人的には要点を掴む=正解ではないと思っています。

とは言え、こういう結論に現在あるということは覚えて置いて損の無いことですので、
勉強になりました。ありがとうございます。

投稿: | 2016年6月29日 (水) 14時55分

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